新渓郡
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位置 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 신계군 |
漢字: | 新溪郡 |
日本語読み仮名: | しんけいぐん |
片仮名転写: | シンゲ=グン |
ローマ字転写 (MR): | Sin'gye-kun |
統計(2008年) | |
面積: | 721.80 km2 |
総人口: | 78,573 人 |
人口密度: | 108.86 人/km2 |
行政 | |
国: | 朝鮮民主主義人民共和国 |
上位自治体: | 黄海北道 |
下位行政区画: | 1邑27里 |
新渓郡(シンゲぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国黄海北道に属する郡。
地理
[編集]黄海北道の北部に位置する。
隣接する行政区画は以下の通り。
歴史
[編集]三国時代初頭には高句麗と百済が争った領域である。百済の統治下、この地は沙所兀(サソオル / 사소올)および買且忽(メチャホル / 매차홀)と呼ばれていた。この地に高句麗が勢力を伸張させると、買且忽を改めて水谷城が置かれた。
統一新羅時代、沙所兀は新恩県に改められ、水谷城も県となった。高麗時代、水谷城は俠渓県と改称された。朝鮮王朝成立後の1396年、新恩県と俠渓県が統合され、新渓県が編成された。
1895年の行政区画再編により開城府所属の新渓郡となり(二十三府制)、14坊が属した。翌1896年に黄海道遂安郡となり(十三道制)、14坊が14面に改められている(中面・東面・赤面・余面・水面・麻面・西面・沙面・芝面・古面・多面・村面・栗面)。
韓国併合後の1914年の行政区画再編では、兎山郡の一部(美原面)を編入するとともに、面の統廃合が行われた。その後も数度にわたり面の統合が行われており、1939年時点で、黄海道新渓郡は以下の8面から成っていた。
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朝鮮民主主義人民共和国成立後、1952年12月に行われた行政区画再編によって、沙芝面の一部が遂安郡に、村面が谷山郡にそれぞれ編入され、残る部分が新たな新渓郡(1邑24里)として再編成された。新溪邑は旧新渓面内に置かれている。
年表
[編集]この節の出典[1]
- 1914年4月1日 - 郡面併合により、黄海道兎山郡の一部(美原面)が新渓郡に編入。新渓郡に以下の面が成立。(9面)
- 中東面・赤余面・美水面・麻西面・沙芝面・古面・多面・村面・栗面
- 1917年 - 中東面が新渓面に改称。(9面)
- 1939年 (8面)
- 栗面および多面の一部が合併し、多栗面が発足。
- 美水面および多面の残部が合併し、多美面が発足。
- 1952年12月 - 郡面里統廃合により、黄海道新渓郡新渓面・古面・多美面・多栗面・麻西面・赤余面および沙芝面の一部地域をもって、新渓郡を設置。新渓郡に以下の邑・里が成立。(1邑24里)
- 新渓邑・馬山里・陵水里・太乙里・天開里・丁峯里・汪塘里・中山里・金城里・楸川里・新星里・芙蓉里・歌舞里・白谷里・砧橋里・亀洛里・支石里・銀店里・泉谷里・大井里・花野里・沙井里・大坪里・花城里・院橋里
- 1954年10月 - 黄海道の分割により、黄海北道新渓郡となる。(1邑24里)
- 馬山里の一部が汪塘里・白谷里に分割編入。
- 汪塘里の一部が馬山里に編入。
- 金城里の一部が中山里に編入。
- 1961年3月 (1邑24里)
- 院橋里の一部が陵水里に編入。
- 砧橋里の一部が亀洛里に編入。
- 1963年11月 - 花城里・院橋里の各一部が合併し、大成里が発足。(1邑25里)
- 1965年1月 - 大成里の一部が谷山郡海浦里に編入。(1邑25里)
- 1965年7月 - 谷山郡海浦里を編入。(1邑26里)
- 1967年10月 (1邑27里)
- 大成里の一部が分立し、新興里が発足。
- 陵水里の一部が新渓邑・馬山里・支石里に分割編入。
行政区画
[編集]2002年10月現在、新渓郡は1邑27里からなる[1]。
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交通
[編集]鉄道
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “北韓地域情報ネット・行政区域情報館 新渓郡” (朝鮮語). 2015年8月9日閲覧。
外部リンク
[編集]遂安郡 | 谷山郡 板橋郡 |
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瑞興郡 | 伊川郡 | |||
新渓郡 | ||||
平山郡 | 金川郡 | 兎山郡 |