施耐の戦い (1283年)

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施耐の戦い (1283年)

戦争モンゴルのチャンパー侵攻
年月日至元23年1月15日1283年2月13日
場所:施耐海汛(現在のビンディン省クイニョン(帰仁)
結果:モンゴル軍の勝利
交戦勢力
チャンパ軍 モンゴル軍
指導者・指揮官
プリャン・シュリー・ユヴァラージャ(インドラヴァルマン5世)
太子プティ(ハリジット)
占城行省官 ソゲドゥ
瓊州安撫使 陳仲達
総管 劉金
総把 栗全
総把 張斌
百戸 趙達
戦力
10,000 5,000
損害
不明 不明

施耐の戦い(ティナイのたたかい、ベトナム語Trận Thị Nại 1283 / 陣施耐1283)は、1283年旧暦正月15日に行われたチャンパ王国軍とモンゴル帝国大元ウルス)軍との戦いである。海路より直接「占城港(現在のクイニョン港:Quy Nhơn/帰仁を指す[1])」に攻め入ったモンゴル軍は約2ヶ月にわたる交渉が失敗に終わった後、クイニョンにおけるチャンパー軍の軍事拠点である「木城」を巡る戦闘で勝利することで「占城港(クイニョン港)」・「大州(チャンパーの首都ヴィジャヤ英語版を指す[2])」を占領することに成功した。

戦場となった地は後にチャンパーを滅ぼしたベトナム人によって「施耐海汛」と呼ばれており[3]、現代のベトナムではこの戦闘を「施耐の戦い(Trận Thị Nại/陣施耐)」と呼称している[4]。「施耐海汛」はクイニョンを占領する上で重要な地点として古くから認識されており、1801年阮福暎がクイニョンで西山朝の軍勢を破った戦いも「施耐の戦い (1801年)ベトナム語版」として知られる。

背景[編集]

1270年代南宋国を平定したモンゴル帝国(大元ウルス)は南海諸国への進出を始めたが、その中でも中国大陸東南アジアを結ぶ海上交易路の要衝たるチャンパーはとりわけ重視されていた[5][6]。至元15年(1278年)8月30日(辛巳)には泉州行省のソゲドゥ蒲寿庚らによって南海諸国に招諭の使者が派遣され、これを受けて至元16年(1279年6月28日甲辰)には占城国(チャンパー国)・馬八児国(パーンディヤ朝)から使者が到着し臣属を表明した[7]。『元史』世祖本紀や占城伝によると至元18年10月[8]にチャンパー王のインドラヴァルマン5世を「占城郡王」に封じるとともに新たに「占城行省」を設立し、これにあわせてソゲドゥ・劉深イグミシュらがそれぞれ占城行省の右丞・左丞・参知政事に任命され、明年正月を期して「海外諸番を征すること」が命じられた[9]

しかしこのようなモンゴル側の一方的な要求にチャンパー側では反発が生じ、「占城は既に服属していたが叛した」ことにより至元17年(1280年)初頭に予定されていた「海外諸番の征服」は延期された[10][11]。そして至元19年(1282年)6月10日、クビライは「占城国主は使を遣わして来朝し臣と称して内属しているが、その子のプティ(補的,恐らくインドラヴァルマン5世の王子ハリジット=後のジャヤ・シンハヴァルマン3世を指す[12])が服従せず、暹(シャム)国に派遣した万戸何子志・千戸皇甫傑らや馬八児(マーバル)国に派遣した宣慰使尤永賢・亞闌らが占城に寄航した時に拘留した」ことを理由にチャンパー=占城への出兵を宣言した[11][13][14]

『元史』世祖本紀によるとこの遠征のために淮・浙・福建・湖広各行省から徴発された軍兵5,000・海船(大海の航行に適するより大きな船)100艘・戦船(比較的小型で行動の敏捷な戦闘用)250艘が準備されてソゲドゥが司令官に任じられ、また11月には「天下の重囚」を軍兵にあてることが決められた[15][16]。また、『安南志略』巻4至元壬午、『大越史記全書』紹宝4年8月などが伝える所によると、クビライは同年8月に占城出兵に際して安南に兵糧を供給することと、進軍のために国内を通過することを要求したが、安南側はこれを拒否したという[15]。この記述から、モンゴル側は本来海陸双方から占城に侵攻する予定であったとみられるが、安南の反抗によって海路からのみ攻めざるをえず、これがモンゴル軍の苦戦につながることとなった[17]

戦闘[編集]

1795年に描かれたクイニョン港。「北に向かって海が湾入しており、東南は山(半島)で遮られる」という『元史』占城伝の記事とよく合致する。

『元史』占城伝によると、広州港より出発したモンゴル軍は至元19年11月に「占城港(クイニョン港)」に至った[18]。「占城港」は北に向かって海が湾入しており、周辺に5つの小港があって「大州」に至り、東南は山(半島を指す)で遮られ、西方に「木城」という要塞があって占城国の拠点とされていたという[19][18]。「木城」は四方約20里の要塞で、この時占城軍は木柵を立てた上で「回回砲」を100余り備えてモンゴル軍を待ち構え、更にその西方にプリャン・シュリー・ユヴァラージャ(Pulyaṅ Çri Yuvarāja/孛由補剌者吾=国主インドラヴァルマン5世を指す[20])が軍を率いて駐屯していた。ソゲドゥは都鎮撫李天祐・総把賈甫らを派遣して改めてインドラヴァルマン5世の投降を促し、七たびに渡って使者のやり取りが行われたが、結局交渉は決裂した[18]

12月に入ると、モンゴル軍のもとに滞在していた真臘(現カンボジア)国使のスレイマン(速魯蛮)が自ら使者となることを申し出、李天祐らとともに木城の西方の行宮にいたインドラヴァルマン5世の下を訪れた[18]。しかしインドラヴァルマン5世は「(我が国は)すでに木城は修復し、甲兵を備えている。期日をあわせて戦おうではないか」と強気の返答を返したという[21][18]

年が明けて至元20年(1283年)に入ると、ソゲドゥはこれ以上の交渉は無駄と見て正月15日夜半より木城への総攻撃を開始した[22]。モンゴル軍は全軍を3部隊に分け、瓊州安撫使の陳仲達・総管の劉金・総把の栗全らは兵1,600を率いて水路を経て北面から、総把の張斌・百戸の趙達らは300名を率いて東面の沙觜から、ソゲドゥ率いる3,000の本隊は南面からそれぞれ迫り、夜が明けた16日早朝に接岸したが、風濤のため17,8人がこの時亡くなったという[22][23]。モンゴル軍の接近を知った木城側は南門から戦象部隊数十を含む1万人あまりが出陣し、モンゴル軍にあわせて3部隊に分かれて迎え撃った[22]。激戦が早朝から正午にわたって繰り広げられたが、遂に占城軍が敗走してモンゴル軍が木城を占領するに至った[22]。敗走した占城軍を追撃して城の東北方面でも再度戦闘が行われ、ここでも大敗した占城軍は数千二人が殺されるか溺死したという[22]。敗戦を知った国主は撤退を決めたが、同時に倉廩などを焼いた上で臣下とともに山中に入り、モンゴル軍に対して焦土戦術をしかけた[22]。また、先にチャンパー国に拘留されてモンゴル軍の出兵理由にも挙げられた尤永賢・亞闌らはこの時処刑されたと伝えられている[24]

なお、『元史』ソゲドゥ伝に「ソゲドゥは戦船1,000艘を率いて広州を出て海路より占城を伐たんとし、占城もこれを迎え撃った。占城の兵は20万と号していたが、ソゲドゥは死士を率いてこれを撃ち、占城側の戦死者・溺死者は5万人あまりを数えた[25]」 とあるのは、やや誇張されているがこの占城港の戦いを指すとみられる[26]

脚注[編集]

  1. ^ 山本1950,116頁
  2. ^ 山本1950,115-117頁
  3. ^ 山本1950,117/145頁
  4. ^ 『大南一統志』巻9平定省,「施耐海汛、在綏福県東、広一百九十七丈、潮深五丈七尺、汐深五丈四尺。……」
  5. ^ 向2021,254頁
  6. ^ 山本1950,99頁
  7. ^ 向2013,77頁
  8. ^ 占城伝の原文では「至元十九年」となっているが、本紀に従って18年と訂正するのが正しい(山本1950,104頁)。
  9. ^ 向2013,85頁
  10. ^ 山本1930,100頁
  11. ^ a b 向2013,86頁
  12. ^ 山本1950,112頁
  13. ^ 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「十九年十月、朝廷以占城国主孛由補剌者吾曩歲遣使来朝、称臣内属、遂命右丞唆都等即其地立省以撫安之。既而其子補的專国、負固弗服、万戸何子志・千戸皇甫傑使暹国、宣慰使尤永賢・亞闌等使馬八児国、舟経占城、皆被執、故遣兵征之。帝曰『老王無罪、逆命者乃其子与一蛮人耳。苟獲此両人、当依曹彬故事、百姓不戮一人』」
  14. ^ ただし、『元史』世祖本紀によるとソゲドゥに占城討伐が命じられた翌日の至元19年6月11日に何子志が暹国に派遣されており(『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年六月]己亥、命何子志為管軍万戸、使暹国」)、「何子志らが占城国に捕らえられた為にクビライは出兵を決意した」とする『元史』占城伝の記述と食い違う。この点について安南史研究者の山本達郎は、クビライが占城出兵を表明した至元19年6月以後も両国の使者のやりとりが記録されていることに注目し(『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年八月]丙辰、謫捏兀叠納戍占城以贖罪。……[冬十月]甲辰、占城国納款使回、賜以衣服」)、6-7月時点では占城国側は本気でモンゴルと対立する気はなく交渉によってこの南極を乗り切ろうとしたのではないか、と推測する。しかし結果的に交渉は失敗したため、ここで初めて占城側はクビライの使者を拘束し、クビライも改めて占城への出兵を表明したのではないか、と論じている(山本1950,111頁)。)
  15. ^ a b 山本1950,113頁
  16. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年十一月]甲戌、中書省臣言『天下重囚、除謀反大逆、殺祖父母・父母、妻殺夫、奴殺主、因姦殺夫、並正典刑外、余犯死罪者、令充日本・占城・緬国軍』。従之。改鑄省印」
  17. ^ 山本1950,114頁
  18. ^ a b c d e 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「[至元十九年]十一月、占城行省官率兵自広州航海至占城港。港口北連海、海旁有小港五、通其国大州、東南止山、西旁木城。官軍依海岸屯駐。占城兵治木城、四面約二十餘里、起樓棚、立回回三梢砲百餘座。又木城西十里建行宮、孛由補剌者吾親率重兵屯守応援。行省遣都鎮撫李天祐・総把賈甫招之、七往、終不服。十二月、招真臘国使速魯蛮請往招諭、復与天祐・甫偕行、得其回書云『已修木城、備甲兵、刻期請戦』」
  19. ^ 山本1950,117頁
  20. ^ 山本1950,106-107頁
  21. ^ 山本1950,114-115頁
  22. ^ a b c d e f 『元史』巻210列伝第97外夷3占城伝,「二十年正月、行省伝令軍中、以十五日夜半発船攻城。至期、分遣瓊州安撫使陳仲達・総管劉金・総把栗全以兵千六百人由水路攻木城北面。総把張斌・百戸趙達以三百人攻東面沙觜。省官三千人分三道攻南面。舟行至天明泊岸、為風濤所碎者十七八。賊開木城南門、建旗鼓、出万餘人、乘象者数十、亦分三隊迎敵、矢石交下。自卯至午、賊敗北、官軍入木城、復与東北二軍合擊之、殺溺死者数千人。守城供餉餽者数万人悉潰散。国主棄行宮、燒倉廩、殺永賢・亞闌等、与其臣逃入山」
  23. ^ なお、この時動員された兵数を合計すると全軍で49,00名となり、『元史』世祖本紀 至元十九年六月戊戌条の「淮・浙・福建・湖広各行省から徴発された軍5,000(淮・浙・福建・湖広軍五千)」という数とよく合致する(山本1950,119頁)。
  24. ^ 山本達郎は、尤永賢・亞闌らを人質にする形でチャンパー国は12月の交渉を行っていたが、交渉は頓挫してモンゴルの攻撃を受けたため、人質としての価値を失ったと判断したチャンパー国主によって尤永賢・亞闌らは処刑されたのであろう、と指摘する(山本1950,120頁)。)
  25. ^ 『元史』巻129列伝16唆都伝,「十八年、改右丞、行省占城。十九年、率戦船千艘、出広州、浮海伐占城。占城迎戦、兵号二十万。唆都率敢死士撃之、斬首並溺死者五万余人」
  26. ^ 山本1950,139頁

参考文献[編集]

  • 向正樹「モンゴル・シーパワーの構造と変遷」『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会、2013年
  • 山本達郎『安南史研究』山川出版社、1950年