コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

モンゴルの高麗侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モンゴルの高麗侵攻
1231年 - 1273年
(1231, 1232, 1235–1239, 1251, 1254, 1255, 1257)
場所朝鮮半島
結果 高麗1259年に降伏。三別抄の乱を経て、1273年までに高麗全域を併合。
衝突した勢力
高麗 モンゴル帝国
指揮官
高宗
崔瑀
崔沆
崔竩
朴犀朝鮮語版
金允侯
洪福源(捕虜)(-1232)
李龍祥
王温朝鮮語版中国語版
林衍
金通精
オゴタイ
グユク
モンケ
クビライ
サリクタイ 
アムカン
ジャライルタイ
洪福源 (1232-)
洪茶丘
金方慶
王諶
ヒンドゥ

モンゴルの高麗侵攻(モンゴルのこうらいしんこう)は、朝鮮半島を統治していた高麗王朝に対して、モンゴル帝国1231年から1273年にわたり繰り返し行った戦争を指す。この間、主要な戦いは9度行われ[1]、高麗の国土は荒廃した。戦争の結果、その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の支配下に置かれることとなる。ただし、周辺国とは異なり、外交を通じて王朝自体は存続していた。

侵攻までの経緯

[編集]

高麗とモンゴルの関係の始まりは1218年である。当時、金朝に属していた契丹族の一部(黒契丹、後遼と呼ばれる)が満洲から高麗に乱入し、江東城(カンドンソン)に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしている[2]。その後の1220年から1223年にかけて高麗王国は連年モンゴルへ朝貢していたが(以降とは異なり奴隷を要求されず)[3]1225年にモンゴル使節が殺害される事件が起きたためモンゴルの侵攻を招いた。ただしこの時、モンゴルのチンギス・カン西夏への遠征中であり、高麗侵攻はチンギスの死後、三男のオゴデイカアンに即位した後に行われた。

12世紀後半の1170年には高麗で文臣の支配に対して武臣(軍人)によるクーデターが起きて、以降1270年まで武臣政権と呼ばれる執政体制が敷かれた。1196年に崔忠献(チェ・チュンホン)が政権を握ってからは「牛峰崔氏」一族が権力を握った。モンゴルによる高麗侵攻当時、崔氏2代目の崔瑀(チェ・ウ)が政権を運営していた。

第一次侵攻

[編集]
オゴデイ・カアン

1231年オゴデイは高麗に対して、先の使者殺害を詰問し降伏・臣従を促す国書を送る[4][5]。これを機にモンゴルによる高麗侵攻が始まる。

開京陥落と降伏

[編集]

サリクタイ・コルチに率いられたモンゴル軍は、鴨緑江を越え、瞬時に国境の義州を陥落させた。このとき高麗の将軍の洪福源(ホン・ボグォン)は1,500戸を引き連れてモンゴルに降伏した。高麗軍は安州および亀城で迎撃したが、モンゴル軍は安州を落とした後、亀城を包囲したが落とせなかったため、サリクタイはこれを無視して一挙に首都の開京の攻略に成功した。首都の陥落を受け、高麗朝廷はモンゴルの侵攻に抵抗できないことを悟り、講和を求めることとなる。これに対しモンゴルは、1万枚の毛皮、2万頭の馬、100万人分の軍服および大量の奴隷など大量の貢物を要求した。

サリクタイは1232年春、主力軍を北に撤退させたが、高麗が講和条件を守るかどうか監視させるためもあり、開城その他の都市に72人の「ダルガチ」(統治官)を配置した[6]

高麗の反撃と江華島への遷都

[編集]

しかし同1232年、崔瑀はモンゴルが残したダルガチ72人を全員殺害した。さらに国王高宗と開京の民を引き連れて、京畿道沖にある江華島に朝廷を移し、モンゴルの脅威に備えて防備を固めた。モンゴル軍は陸戦には長けているが、海戦には不向きと判断したためである。崔瑀は国内の船を総動員して兵や軍事物資を江華島へ運搬した。また平民にも城や山砦、沖合の島などへの移動命令が出されたが、実現不可能な空文に過ぎなかった。江華島には強固な砦が築かれ、対岸の半島本土側にも小規模な城壁が施され、文殊山(ムンスサン、慶尚北道)には二重壁が建設された。この結果、農村の休耕や国土の荒廃を招くことになる。

第二次侵攻

[編集]

モンゴル側はこれらの朝廷移転やダルガチの殺害という明確な敵対行為に対して、2度目の遠征を行った。モンゴル軍は、第1次侵攻で降伏した洪福源に兵を率いさせ、半島北部を制圧。続いて半島南部へ到達したが、陸地からわずかの距離しかない江華島を制圧することができず、光州で反撃された。この間、サリクタイは龍仁附近で行われた処仁城(チョインソン)の戦いで流れ矢に当たり戦死し、モンゴルは撤退を余儀なくされた。

第三次侵攻

[編集]
海印寺・大蔵経経板閣内の版木

この状況を受け、1234年に金を滅亡させたオゴデイは、3度目の高麗制圧を企図し、1235年から慶尚道全羅道全域で掠奪が開始された。モンゴル軍は江華島政権および半島本土の山城の攻略を避け、高麗軍の補給を絶つため農地を焼き払う挙に出た。江華島政権は防御をより固めていたが、度重なるモンゴル軍の侵略に対して、抗戦不能に陥りつつあった。

他方の江華島では1236年、高宗が第2次侵攻の際に戦災で焼失した符仁寺(プインサ)大蔵経の版木の復元を指示。15年の歳月をかけて1251年に経典1,512部、6,805巻を集めた81,258枚の版木が製作された(高麗八万大蔵経[7]。その後海印寺(ヘインサ)に移され、現在韓国の国宝となっている。

1238年、高麗は再び和議を望むようになり、高麗王室から人質を出すことを条件にモンゴル軍が撤退することとなった。しかし無関係の人間を王室の者と偽って人質に出したため、モンゴル側は激怒し、高麗王室の江華島からの退去、海上のすべての艦艇の一掃、反モンゴル的貴族の差し出しなどを強硬に求めた。しかし、高麗側は王族佺[8]と10人の貴族子弟を人質に出した以外は要求を拒絶した。

第四次侵攻

[編集]
1251年8月末のクリルタイでのモンケ・カアン(1438年書写の『世界征服者史』の写本)

1247年、モンゴルは4度目の高麗侵攻を実施、江華島から松都(開京)への還都、および高麗王室からの人質を再び要求した。アムカン率いるモンゴル軍は塩州に駐屯。高麗朝廷が開京への帰還を拒むと、全土への掠奪を再開するが、1248年グユク・カンが崩御したことで、モンゴル軍は一時撤退した。しかし、モンゴル軍の襲撃は1250年まで続く。その間、高麗では反モンゴル戦争を主導した崔瑀が1249年に死亡している。

第五次侵攻

[編集]

モンゴルはグユクの死後、後継紛争が終わり、モンケが即位すると、1251年イェグに頼み、高麗を侵攻した。崔瑀の死後、その跡を継いで高麗朝廷の執政者となった崔沆(チェ・ハン)は江華島を固く守ることになったが、モンゴルはこれを陥落できず、東州、春州、楊根、襄州などを攻撃した後、忠州城に向かった。このとき突然イェグは病気を理由に帰国したが、途中に高麗の撤収要求を受けた。彼はある程度妥協の姿勢をとり、高宗は江華島から出て昇天府でモンゴル使者の洪高伊と会見した。一方で忠州城の戦いも70日間にわたる熾烈な攻防戦の末、モンゴルが不利になり、ついに撤退し始めた。

第六次侵攻

[編集]

モンケによる江華島朝廷への出陸要求

[編集]

1251年10月、モンケはモンゴル帝国第4代皇帝に即位すると、自らの即位を通告する使者として将困、洪高伊ら40人を送り、詔を発して国王高宗に「出陸」(江華島からの退去と半島本土への帰還)および「親朝」(自らのモンゴル宮廷への出頭)を求めた。これを受けた高麗宮廷は朝議で紛糾し、太子を代わりに遣わして親朝するか、あるいは高宗は老病のため親朝できないことを伝え、これを詰問された場合は太子を代わりに遣わして親朝させれば良いのではないか、という意見が出た。

1252年正月にモンゴル側に李峴を使者として送り出したが、7月にはモンゴル側から使者として多可・阿土ら37人が来て国王の出陸について審問してきた。一旦は使者をモンゴル側に送って近く出陸すると答えた。モンゴル側はこれを言質として再度使者をよこすと国王高宗の出陸を要求した。使者たちはモンケの命令で高麗からの使者李峴がモンゴル宮廷に留め置かれたことを告げ、「国王が陸でお前たち使者を迎えるならば、たとえ人々がまだ出て来なくともそれで良しとする。もしそうでなければ直ちに帰還せよ。お前たちが来るのを待って(高麗に)兵を発して討伐させる」というモンケから使者たちに課された指令を伝えた[9]。モンゴル側は高麗宮廷が未だ江華島に立て籠って違約を続けている事に対して、旧都の開京への帰還を求めた。

高麗朝廷の動き

[編集]

高宗が執政者の崔沆に対策を問うたところ、「国王は軽々しく江華島より出るべきではありません」と答えた。廷臣たちはモンゴル側の出陸の要求に従うべきだと考えていたが、崔沆がこれを拒絶すべきとの意向を示したため、高宗共々これに従ったという。高宗は代わりに新安公佺に使者たちを迎えさせるよう遣わし国王の出陸は行われなかった。この高麗の違約は使者の多可らを怒らせ、モンゴルの使者は帰還した[10]

1252年12月、モンケの命を受けた諸王イェグ(也古、ジョチ・カサルの長男)が軍をともない併せて質子(トルガク)としてモンゴル宮廷に出仕していた永寧公綧を使者として寄越して来た。モンゴル軍はその間、東真国のあった地域に進駐した。

第六次侵攻と停戦

[編集]

1253年5月にはイェグは先年高麗に使者として来た阿豆ら16人を改めて使者として送って来たが、進展は無かった。ついに、その国王が国外へ旅するなど先例がないとして拒絶[11]。モンケはイェグに、高麗の軍を統治するよう命じ、モンケ宮廷の高麗人の勧めにより1253年7月に侵攻を開始した。イェグはアムカン(阿母侃)を伴い、高麗に降伏を要求。高麗はこれを拒絶するが、モンゴルへの抵抗は諦め、山城や島嶼部に農民を集めはじめた。

またジャライルタイ・コルチ(札剌児帯)はモンゴルに降伏した高麗の将とともに国土を蹂躙した。イェグの使者が高宗の宮廷に遣わされると、高宗はついに本土への帰還と、第2王子の安慶公王淐を人質に出すことを承諾。高麗の降伏を受け、モンゴルは1254年1月に停戦に応じた[12]。しかし、高麗朝廷の上層部は江華島に残留していた。

第五次侵攻では、捕虜となった者が20万6千800余人、死者は「骸骨野を蔽う」ほどであったという[13]

第七次侵攻

[編集]

翌年、1255年にモンゴルのモンケは再びジャライルタイ・コルチを大将として人質に取っていった王綧洪福源を連れて大軍を送り、甲串対岸に集結して江華島を攻撃する勢いを見せた。しかし、ちょうど前にモンゴルに行っていた金守剛がモンケを説得させるのに成功し、モンゴルは高麗から撤収した。

第八次侵攻

[編集]

第7次戦争当時、金守剛がモンケを説得し、モンゴル軍の撤収に成功した。 しかし、これは一時的な対策に過ぎず、さらに1257年にはモンゴルはジャライルタイ・コルチに軍隊を与え高麗を侵攻させた。これまで政府は再び金秀江を撤退交渉の使臣としてモンゴルに派遣し、モンケに謁見させてその許可を得たので出陸と親潮を条件にモンゴルはいったん軍隊を北に後退させ、高麗の態度と動きをうかがっていた。

第九次侵攻

[編集]

ジャライルタイ軍の侵攻

[編集]

モンゴル帝国は後に高麗朝廷上層部の江華島残留を知り処罰した。その後1253年から1258年にかけて、罷免されたイェグに代わって征東元帥に任じられたジャライルタイ[14]配下のモンゴル軍は、貴人と官吏のみが要衝へ立て籠ったため多くが放置されていた高麗領へ、6年に渡り断続的な破壊・略奪を行う第6次侵攻が開始された。

この第6次侵攻は小休止を挟んで4度の波があったが、渡る第一波となった1254年には206,800余人の高麗人が捕虜となり、殺された者は数えきれず、「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」「骸骨野を蔽う」といった惨状を呈したという[15]

崔氏政権の崩壊と高麗朝廷の降伏

[編集]

この間、高麗朝廷内部はモンゴルへの対応について2派に分かれていた。モンゴルとの戦争に反対し降伏を進めようとする文臣グループ(文班)と、モンゴルとの戦争を継続しようとする崔氏が率いる武臣グループ(武班)である。しかし、文臣の筆頭だった柳璥朝鮮語版中国語版(ユ・ギョン)が武臣の金俊(キム・ジュン)と結託して崔竩(チェ・ウィ)を暗殺して崔氏政権を倒すと、モンゴルとの講和が進展する。崔氏滅亡を告げるモンゴル宛て国書で高宗は「今まで我が国が貴国に事大の誠を尽くせなかったのは権臣が政治を奪い貴国へ属するのを嫌がったためであり、崔竩が死んだ今、ただちに都を戻し、貴国の命を聞きます」と全面的な従属を宣言した[16]

戦後

[編集]

モンゴル帝国直轄領

[編集]

以後、旧高麗領の多くはモンゴル領征東行省(高麗行省)となり、モンゴルの役人によって軍政両面に渡り統括された。モンゴルは和州(現在の金野郡)に「双城総管府」を設置し、その周辺を直轄領に編入。1259年4月に王倎をモンゴルに入朝させることを決した[17]

クビライと元宗の王政復古

[編集]
クビライ・カアン

高宗の世子の王倎はカアンのモンケに拝謁するため、モンゴルへ向かっていたが、1259年南宋へ遠征中のモンケが急逝した。上都開平府へ帰還中のクビライ(モンケの弟。後の元世祖)に拝謁した。さらに翌1260年春、今度は高宗が没したため王倎は帰国を哀願、クビライは帰国を許可した(即位して元宗と称する)。4月12日、モンゴル皇帝に即位したクビライは王倎以下上下朝臣の帰服を嘉した。王倎が、モンゴル軍による掠奪の免除と捕虜・逃民を帰参させる許しを求めると、5月13日に詔諭を下しこれを許可した。6月、王倎が子の王僖を入朝させたことにより、国王の冊封を受け王印と虎符を賜った[18]

以後、元宗は度々モンゴル・元朝へ入貢を行いモンゴルを背景として権力の安定を図ったが、反モンゴル派はこれを不満として親モンゴル派との対立を深める。1268年林衍(イム・ヨン)らが権臣・金俊を暗殺する。翌年には林衍らが親モンゴル派の崔坦(チェ・ダン)らとの確執により、元宗を廃して弟の安慶公王淐を擁立する乱を起こした。クビライは、入朝していた世子の王諶の、兵3,000と5カ月分の糧秣を頂き私が同行すれば騒乱は収められる、との献策を受けて諶に3000・将軍モンゲトゥに2000の兵を授け高麗へ派遣、モンゴル軍は瞬く間に乱を鎮圧した[19]。さらに急死した林衍の跡を継ぎ令公(武臣政権の執政者)となった林惟茂(イム・ユム)を文班の洪文系(ホン・ムンギェ)、宋松礼(ソン・ソンネ)らが殺害、高麗の武臣政権は終わりを告げ、王政復古が成った[20]

高麗の分裂

[編集]

1269年10月、林衍の乱の原因となった親モンゴル派で都統領の崔坦らが、西京(平壌)を中心とする西北面50城を領して、高麗から分離し元に帰属した。クビライは西京を「東寧府」へ改称し東寧路を置いた。またその北の遼寧平原の瀋州(瀋陽)一帯は先に降伏していた洪福源らの一族が統治していた。

一方、林衍一派の残党である裴仲孫(ペ・チュンソン)は残存勢力を集め、高麗王室の傍流にあたる王温朝鮮語版中国語版を擁立して江華島を脱出、半島西南部の珍島を根拠として「高麗国」を自称した[21]

これら高麗人が別々に構成した4つの勢力(北から順に洪福源・崔坦・元宗・珍島)をまとめて統治するため、クビライは行中書省を置き、クルムシムカリ国王家)を長官に据えた。クルムシの勧告を受けて元宗は江華島を退去し[22]、開京に還都し、ここに約40年にわたった江華島政権は終了した。

三別抄の乱と高麗征服の完了

[編集]

しかし江華島からの退去に従わない武人は、高麗の首都警備軍である「三別抄(サムピョルチョ)」を主力として反乱を起こし、珍島臨時政府に合流してモンゴルに抵抗した。クビライはヒンドゥ(忻都)に5,000の騎兵を授けて金州に駐屯させ、元宗に三別抄討伐のための軍船を造らせる一方、後に2度の元寇に従軍することになる洪福源の子の洪茶丘(ホン・タグ)にも兵を率いさせて屯田させた。

1271年(この年からクビライは国号を「大元」と改める)アカイ率いる第1次珍島討伐は失敗に終わる。同年3月、三別抄は日本の朝廷に対して援軍と兵糧を求めたが、日本側では事態がよく理解できておらず、この要求は無駄に終わった[23]。同5月ヒンドゥ率いる元・高麗連合軍が珍島を攻略し、モンゴルとして初めて海戦に勝利して、王温を捕らえ斬刑に処した。

なおも三別抄の指導者金通精らは、属国の耽羅国(済州島)へ逃れて耽羅国王を追い出し籠城したが、ヒンドゥ軍12,000の兵は1273年軍船108艘に分乗して耽羅を攻略。三別抄勢力を壊滅させた元朝は耽羅総管府を設置、高麗征服事業は完了した。

モンゴルによる政治的支配

[編集]

征東行省による統治

[編集]

征東行省が臨時機関から常設組織へと変質した1287年以降は、政治・軍事に加え行政も征東行省によって処理されるようになり、高官以下行政官の人事権も征東行省が握り、賦税も元の朝廷へ収めるよう変更されるなど、旧高麗は直接統治下(羈縻支配体制であり、他の行省ほど集権的ではなく、一定の自治権を残していたと考えられている)に組み込まれていった[24]。イルハン朝で編纂された『集史』には「(高麗王)はクビライに寵愛され王と称してはいたが、実際には王では無かった」とある。高麗王が官制をモンゴル式から高麗風に改めようとした事もあるが、元の役人から反感を買って廃され、達成されることは無かった[25]

その後の高麗王室

[編集]

その後、高麗王室と元皇室や元の貴人は互いに姻戚を結び、4代の高麗王は元朝宮廷において最高ランクの金印獣紐を授けられる諸王・駙馬のひとつ「駙馬高麗王」の地位を得る[26]。元宗の子の忠烈王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)にクビライの皇女クトゥルク=ケルミシュ公主(斉国大長公主 忽都魯堅迷失)が下嫁した[27]

第1・2次の征東行省において高麗国王は次官(長官は右丞相の阿剌罕、阿塔海ら)となった、第3次では無官となるが忠烈王の復位した際に再び左丞相に任じられた。恭愍王(在位1351年 - 1374年)に至るまで約80年間、歴代国王は世子の時期にモンゴル宮廷に人質(トルカク)として赴き、ケシクなどのモンゴル宮廷での歴代モンゴル皇帝近辺での職務に従事し、これによってモンゴル名を与えられ、またモンゴル貴人の娘を娶り、前王が逝去した後に帰国し、高麗王に就くのが慣例となる。

クビライ時代は「帰順が遅かった叛逆諸侯のひとつ」としてクビライからカルルク王家と比べられてなじられる場面もあったが、クビライ晩年に起こったナヤン・カダアンの乱の鎮圧にも従事し、その鎮圧にあたった皇孫テムルがクビライを継いでモンゴル皇帝に即位すると、高麗王家の地位は上がった。しかし、クビライ王家との姻戚を深めることは同時にテムル没後のクビライ王家内における皇位継承紛争の影響を直接受けることに繋がり、モンゴル宮廷の高麗王族・官僚と高麗王室で確執が生じ、大都宮廷での内紛に伴うモンゴル皇帝の交替に伴い高麗王の改廃も生じる事態となった。また、高麗から宮廷などへ高麗王族と貴族が出仕する例が増え、高麗国内よりも高位の職を得る人物も出現した。元朝最後の皇帝(カアン)となったトゴン・テムルの皇后となりアユルシリダラ北元2代ハーン)を生んだ完者忽都皇后(奇皇后)は、高麗からモンゴル宮廷に宮仕えのために出された宮女であった。

忠烈王の親モンゴル政策と日本侵攻(元寇)

[編集]

特に忠烈王は父の元宗の路線を継承し、親モンゴル政策に傾倒した。忠烈王は元宗廃位事件によって父元宗救出のためモンゴル軍の出動を要請したおりに、高麗は以後モンゴル側への出征には率先して労力を惜しまない、という言質を与えたため、クビライの日本侵攻の意志が固まる頃には、その応対に「率先して当たる」態度を幾度も示さねばならなかった。出征に供出する兵員や人員、装備は高麗の国情にとっては重い負担だったようで、クビライの要求を受け入れつつ負担の軽減をその都度嘆願し、場合によっては自弁し切れなかった武器などを元軍から支給してもらうなどしていた。日本侵攻の為の第二、三次征東行省が置かれたが、高麗国王がその次官である左丞相[28]となった。

文永・弘安の役に関わる一連の出来事は高麗王にとって、一面では高麗王家の地位安定に向けた絶え間ない危機と模索の時期であったともいわれる[29]。日本への最初の侵攻となった文永の役(1274年)は、三別抄鎮圧の翌年、遠征軍出発に先立つ高麗世子の王諶と皇女のクトゥルク=ケルミシュと婚姻、直後に元宗が死没しており、その喪が明けると同時に世子の王諶は忠烈王として即位した年でもあるという、高麗にとっても目まぐるしい年であった。征東行省を運営したダルガチ以下のモンゴル人の役人は、高麗では貴族として扱われた。

耽羅島(済州島)

[編集]

耽羅島(済州島)は元々高麗に属さず、また牧草に富み馬群の放牧に最適な地でもあり、対日本・南宋への絶好の軍事的位置でもあることから直轄地とされた(現在でも馬の毛色の名前にモンゴル語の影響が残っている)。

モンゴル支配からの脱却と高麗滅亡

[編集]

1350年代、元朝の衰えが顕著となると、恭愍王は親元勢力を排除し、元の外戚として権勢を振るっていた奇氏を討伐。崔瑩(チェ・ヨン)や李成桂(イ・ソンゲ)らの武人を登用して1356年に元から高麗旧領土を奪い返し、ようやくモンゴル支配から脱して独立した。そのころ、大陸で紅巾の乱が発生し、紅巾軍が朝鮮半島にも到来するが高麗軍は撃退に成功する。また同時期に倭寇の襲来にも高麗は悩まされており、1389年には朴葳(パク・ウィ)が対馬征伐を行なっている(高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻)。

この過程で力を得た李成桂によって1392年李氏朝鮮が成立し、高麗王朝は滅亡した。

高麗のモンゴル侵攻認識

[編集]

A

君是天也,父母也,方殷憂大戚如此,而不於天與父母,而又於何處訴之耶,伏望皇帝陛下,推天地父母之慈,諒小邦靡他之意,敕令大軍,回轅返旆,永護小國,則臣更努力竭誠,歳輸土物,用表丹悃,益祝皇帝千萬歳壽,是臣之志也。伏惟陛下,小加憐焉。

君主は天であり、父母であります。……伏して皇帝陛下にお願い申し上げたいのは、天地父母の慈しみをもって小邦に二心がないことをご理解くださり、軍隊を引き返して末永く小国を保護してくださいますならば、私どもはさらに努力して誠を尽くし、毎年土産物をお送りして赤誠の心をあらわし、ますます皇帝のお命が永遠に続くことを祝します、これが私どもの志でございます[30] — 高麗史、巻第二十三、高宗十九(一二三一)年冬十二月

B

國書曰:我國臣事蒙古大國,稟正朔有年矣,皇帝仁明,以天下爲一家,視遠如邇,日月所照,咸仰其德。今欲通好於貴國而詔寡人云,日本與高麗爲隣,典章政治有足嘉者,漢唐而下屢通中國,故特遣書以往,勿以風濤阻險爲辭。其旨嚴切,茲不獲已,遣某官某奉皇帝書前去。貴國之通好中國,無代無之。況今皇帝之欲通好貴國者,非利其貢獻,蓋欲以無外之名高於天下耳,若得貴國之通好,必厚待之。其遣一介之士以往觀之,何如也,貴國商酌焉。

わが国は蒙古大国に臣事することがもう何年にもわたっています。皇帝の仁徳は明らかであり、天下を一家とみなして遠近の差をつけることもなく、日月が照らす所はみんなその徳を仰いでいます[30] — 高麗史、世家第二十六、元宗八(一二六六)年八月

C

陛下降以公主,撫以聖恩,小邦之民,方有聊生之望,然茶丘在焉,臣之爲國,不亦難哉。如茶丘者,只宜理會軍事,至於國家之事,皆欲擅斷,其置達魯花赤於南方,亦非臣所知也。上國必欲置軍於小邦,寧以韃靼漢兒軍,無論多小而遣之,如茶丘之軍,惟望召還。

陛下が皇女を降され、聖恩によって撫育してくださることによって、(わたしども)小邦の民はまさに安心して生きる望みがあります。……上国がどうしても軍隊を小邦に設置したいとお望みならば、むしろ韃靼か漢人の若者の軍隊を多少を問わず派遣されて頂くことを願っています[30] — 高麗史、世家第二十八、忠烈王(一二七七)四年六月

D

弊邑本海外之小邦也,自歴世以來,必行事大之禮,然後能保有其國家,故頃嘗臣事于大金。及金國鼎逸,然後朝貢之禮始廢矣。越丙子歳,契丹大擧兵,闌入我境,橫行肆暴。至己卯,我大國遣帥河稱,扎臘領兵來救,一掃其類。小國以蒙賜不貲,講投拜之禮,遂向天盟告,以萬世和好爲約,因請歳進貢賦所便。

弊邑はもともと海外の小邦であります。歴史が始まって以来、必ず事大の礼を行い、そうして国家を保ってきました。それゆえ、近頃かつて大金に臣事していましたが、金国が敗亡するに及んで初めて朝貢の礼を取りやめました。(しかし)丙子の年(一二一六)を過ぎると、契丹が大挙派兵してわが境域内に乱入して好き勝手暴行しました。己卯(一二一九)になると、わが大国(元)が軍帥の河稱と扎臘を派遣して領兵が助けに来てくださり、奴らを一掃してくださいました。小国にとってその大恩はつぐなえないほどであります[30] — 高麗史、世家第二十三、高宗十九(一二三一)年冬十一月

E

夫主國山川,依人而行者,神之道也,則所寓之國,所依之人,能不哀矜而終始保護耶,本朝自昔三韓,鼎峙爭疆,萬姓塗炭,我龍祖應期而作,俯循人望,擧義一唱,四方響臻,、自然歸順。然當草昧閒,或有不軌之徒,嘯聚蜂起,而以尺劒,掃淸三土,合爲一家。然後,聖聖相繼,代代相承,以至于今日矣。三百餘載之閒,時數使然,災變屢興,卽能戡定者,全是我諸神僉力潛扶,保安社稷之所致也。越辛卯歳以來,不幸爲蒙人所寇,國家禍亂,不可殫言。

本朝は三韓の昔から、三方に向かって境界を争い、あらゆる一族が塗炭の苦しみを味わい、わが王でさえも時には味わい、伏して人民の望みにしたがって義兵を起こそうと唱えると、四方が声に応じて集まり、自然に帰順しました。しかし、混乱した時にもし謀反の徒がいれば、号令によって人を集めて蜂起し、剣によって三土を掃討し、合わせて一家にしてきました[30] — 高麗史、世家第二十四、高宗四十一(一二五三)年冬十月

モンゴル皇帝に差し出す公式文書「」(A)では、モンゴル皇帝に対して「」や「父母」と同様の絶対的服従を表明しており、朝鮮から日本への国書(B)及び忠烈王のモンゴル皇帝への奏上文C)では、モンゴルを「大国」「上国」、それに対して自国を「小邦」と表現しており、モンゴル皇帝に陳情した書面(D)では、高麗は「海外の小邦」であり、大国に対して常に「事大の礼」を行って臣事し、「朝貢の礼」を行ってきたことを認める一方、宗廟への祈告文(E)では、塗炭の苦しみを味わうような侵略に対しては都度「義兵」を起こして抵抗し、国内の謀反勢力を掃討しながら統一を保ってきたことが力説されている[30]

森平雅彦は、「高麗がモンゴルに送ったでは、モンゴル官人に対して尊官・貴人に対する尊敬である『閣下』を用い、モンゴル官人側の指示・命令についても尊官・貴人のおおせを意味する『鈞旨』を用いる一方、自国のことは『小国』『小邦』『弊邑』と卑称している。したがって、基本的には相手を上にたてた形式で書かれたものとみて大過なかろう」と述べており[31]、蒙古(モンゴル)を「天」「父母」「大国」「上国」と表現しているのは、高麗のそれまでの対中国認識をそのままモンゴルに当てはめ、モンゴルを中国皇帝=「天」に代置するものとして認識していたことを示し、自国(高麗)を「弊邑」「小邦」と表現しながらも、侵略に対しては「義兵」によって防御し、謀反の徒に対しては「尺剣」によって掃討して統一を保ってきたことが強調されるのは、三国を統一したことが高麗のナショナル・アイデンティティとなっていることをうかがわせる[32]

脚注

[編集]
  1. ^ 回数の数え方は研究者によって異なり、7度や9度と言われることもある。
  2. ^ 杉山1996、107頁。村井1999、100頁。
  3. ^ 『元史高麗伝』「[太祖]十四年九月,皇太弟、国王及元帥合臣、副元帥札剌等各以書遣宣差大使慶都忽思等十人趣其入貢,尋以方物進。十五年九月(中略)以皇太弟、国王書趣之,仍進方物。十八年八月,宣差山朮等十二人復以皇太弟、国王書趣其貢献。」
  4. ^ 『元史』巻2 太宗本紀「[太宗三年秋八月]是月、以高麗殺使者、命撒禮塔率師討之、取四十餘城。」
  5. ^ 『元史』巻208 高麗伝「[太祖十九年]十二月、又使焉、盜殺之于途、自是連七歳絶信使矣。 太宗三年八月、命撒禮塔征其國、國人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戸、旁近州郡亦有來師者。」
  6. ^ 『元史』巻208 高麗伝「太宗三年八月、命撒禮塔征其國、國人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戶、旁近州郡亦有來師者。撒禮塔即與福源攻未附州郡、又使阿兒禿福源抵王京、招其主王皞遣其弟懷安公王侹請和、許之。置京、府、縣達魯花赤七十二人監之、遂班師。」
  7. ^ 世界全史、312頁。
  8. ^ 村井1999、14頁。
  9. ^ 『高麗史』巻129 列伝43 叛逆3 崔忠献「[高宗]三十九年、李峴奉使如蒙古、沆謂峴曰:『彼若問出陸、宜荅以今年六月。(中略)帝乃留峴、遂遣多可土等密勅曰『汝到彼國、王迎于陸則、雖百姓未出猶可也。不然、速回。待汝來、當發兵致討伐…』」
  10. ^ 『高麗史』巻24 高宗世家3 高宗三十九年秋七月戊戌(十六日)条「戊戌、蒙古使多可阿土等三十七人來帝密勅多可等曰:「汝到彼國、王出迎于陸、則雖百姓未出、猶可也。不然則待、汝來當發兵致討。」多可等至王、遣新安公佺、出迎之請蒙使入梯浦館。王乃出見宴未罷、多可等以王不從帝命怒而還昇天館。」/『高麗史節要』巻17 高宗三十九年七月条「秋七月、蒙古遣多可阿土等三十七人、來審出陸之状。初李峴之如蒙古也。崔沆謂曰『若詰出陸、宜荅以今年六月』。乃出峴未至蒙古、東亰路官人阿母侃通事洪福源等請發兵伐之。帝已許之及峴至。帝問『爾國出陸否』。對如沆言。帝又問『留爾等別遣使審視。否則如何』。對曰『臣於正月發程、已於昇天府白馬山營宮室城郭。臣敢妄對』。對帝乃留峴。遂遣多可土等来密勅曰『汝到彼國、王迎于陸則、雖百姓未出猶可也。不然、速回。待汝來、當發兵致討伐』。峴書状官張鎰随多可能来密知之具白王。王以問沆對曰『大駕不宜輕出江』。公卿皆希沆意執不可。王從之遣新安公佺、出江迎之請蒙使入梯浦館。王乃出見宴未罷、多可等以王不從帝命怒而還昇天館。時人謂『沆以淺智誤國大事、蒙兵必至矣』。」
  11. ^ 『高麗史』
  12. ^ 村井1999、105頁。
  13. ^ 関周一 編『日朝関係史』吉川弘文館、2017年2月7日、103-104頁。ISBN 978-4642083089 
  14. ^ 『元史』巻3 憲宗本紀 憲宗三年癸丑春正月条「三年癸丑春正月、汪田哥修治利州、且屯田、蜀人莫敢侵軼。帝獵于怯蹇叉罕之地。諸王也古以怨襲諸王塔剌兒營。帝遂會諸王于斡難河北、賜予甚厚。罷也古征高麗兵、以札剌兒帶為征東元帥。遣必闍別兒哥括斡羅思戸口。」
  15. ^ 『高麗史』巻24 高宗世家3 高宗四十一年条「是歳、蒙兵所虜男女、無慮二十萬六千八百餘人、殺戮者不可勝計。所經州郡、皆爲煨燼、自有蒙兵之亂、未有甚於此也。」/同高宗四十二年夏四月条「是月道路始通。兵荒以來、骸骨蔽野、被虜人民逃入京城者、絡繹不絶。都兵馬使、日給米一升救之然死者無筭」 村井1999、105頁。
  16. ^ 村井1999、93-94頁。
  17. ^ 村井1999、106頁。
  18. ^ 『元史』巻4 世祖本紀 中統元年6月 条「高麗國王王倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即來賀即位、以國王封冊、王印及虎符賜之。」/『元史』巻208 高麗伝「(中統元年)六月、倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即入賀即位、以國王封冊、王印及虎符 賜之。是月、又下詔撫諭之。」、杉山1996、112-113頁。
  19. ^ 『元史高麗伝』
  20. ^ 杉山1996、113-117頁。
  21. ^ 元史高麗伝。杉山1996、114-115頁。
  22. ^ 杉山1996、115-116頁。
  23. ^ 村井1999、111-114頁。
  24. ^ 程尼娜『元代朝鮮半島征東行省研究』
  25. ^ 『征東行省新論』
  26. ^ 元史』巻108 表3「諸王表」。『元史』世祖本紀によると「駙馬高麗王」に封じられたのは至元11年7月癸巳(1274年8月22日)
  27. ^ 元史』巻8 世祖本紀5「[至元11年5月]丙申(1274年6月26日)、以皇女忽都魯堅迷失下嫁高麗世子王諶。」/『元史』巻109 表4 諸公主表「高麗公主位:齊國大長公主忽都魯堅迷失、世祖之女、適高麗王諶、即王昛也。」
  28. ^ 『元史』巻91 志41上 百官志7「征東等処行中書省。至元二十年、以征日本国、命高麗王置省、典軍興之務、師還而罷。大特が三年、復立行省、以中国之法治之。既而王言其非便、詔罷行省、従其俗。至治元年復置、以高麗王兼領丞相、得自奏選属官、治瀋陽、統有二府、一司、五道。」
  29. ^ 森平雅彦『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』
  30. ^ a b c d e f 井上厚史「朝鮮と日本の自他認識 : 13〜14世紀の「蒙古」観と自己認識の変容」『北東アジア研究』別冊3、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2017年9月、35頁、ISSN 1346-3810 
  31. ^ 森平雅彦『モンゴル覇権下の高麗―帝国秩序と王国の対応』名古屋大学出版会、2013年11月30日、213頁。ISBN 978-4815807535 
  32. ^ 井上厚史「朝鮮と日本の自他認識 : 13〜14世紀の「蒙古」観と自己認識の変容」『北東アジア研究』別冊3、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2017年9月、36頁、ISSN 1346-3810 

参考文献

[編集]

史料

[編集]

二次文献

[編集]

関連項目

[編集]