コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

日新丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日新丸(にっしんまる)は、日本の捕鯨母船。歴史上で日新丸と命名された捕鯨母船は3隻あるほか、第一日新丸と第二日新丸(初代・2代)および第三日新丸と林兼商店(後の大洋捕鯨、大洋漁業、マルハ、現:マルハニチロ)や日本共同捕鯨の持ち船として同名船が多数存在し、「日本の捕鯨の象徴」と呼ばれている[1]

共同船舶が保有する4代目の日新丸は、竣工以来世界唯一の捕鯨母船で、1987年から2019年に行われた日本の調査捕鯨では、調査母船となっていた。

日新丸 (初代)

[編集]
日新丸(初代)
日新丸(初代)
基本情報
船種 捕鯨母船
クラス 日新丸型捕鯨母船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 林兼商店(後に大洋捕鯨
運用者 大洋捕鯨
 大日本帝国海軍
建造所 川崎造船所
母港 東京港/東京府
姉妹船 第二日新丸
信号符字 JGFL
IMO番号 42336(※船舶番号)
建造期間 214日
就航期間 2,778日
経歴
起工 1936年(昭和11年)2月26日[2]
進水 1936年(昭和11年)8月1日
竣工 1936年(昭和12年)9月28日
最後 1944年(昭和19年)5月6日被雷沈没
要目
総トン数 16,801トン[2]
純トン数 13,220トン
載貨重量 22,190トン
垂線間長 163.07m
型幅 22.56m
型深さ 14.86m
高さ 12.19m(水面から1番デリックポスト最上端まで)
25.6m(水面から1番マスト最上端まで)
17.98m(水面から2番デリックポスト最上端まで)
30.78m(水面から2番マスト最上端まで)
主機関 川崎MANディーゼル機関 1基
推進器 1軸
出力 7,120BHP
最大速力 14.471ノット
航続距離 13ノットで15,600海里
1941年11月25日徴用。
高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記)
テンプレートを表示

建造・操業

[編集]

林兼商店[1]北洋漁業に参入しようとしたが、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ)が先行し、政府の指示もあって135万円の保証金で事業を断念せざるを得なかった[4]。そこで、既に1934年(昭和9年)に日本捕鯨(後に日本水産、現・ニッスイ)が図南丸で参入していた南氷洋捕鯨の開始を企画し、創業者で社長の中部幾次郎は次男の中部謙吉(後に3代目社長)を川崎造船所に派遣し、大型の捕鯨母船建造を相談した。応対したのは吉岡安貞専務(元・海軍少将)で、その場で建造を快諾し、漁期が始まる10月末までの竣工も確約した[5]。川崎造船所は建造にあたってイギリスファーネス造船所英語版から、世界初のディーゼルエンジン搭載捕鯨母船であるノルウェー船籍の捕鯨母船サー・ジェームス・クラーク・ロスノルウェー語版(14,362トン)の設計図を10万円で購入し、万一に備えて設計図を2枚作り、シベリア鉄道経由と大西洋-アメリカ経由の航空便で入手した。建造契約の最終協議は丸ノ内ビルヂングの中部の事務所で行われ、総工費は保証金だけでは不足する550万円だったが、折しも皇太子明仁誕生の号外の鈴が鳴り「幸先が良い」と調印が終わった[6]

原形となったサー・ジェームス・クラーク・ロスは2軸推進だが、主機製作やスクリュー調達の関係で1軸推進とした[2]ため、船尾材、舵等は新たに設計され、遮浪甲板から覆甲板に変更するなどのアレンジを加えた船型となった[7]。また、設計図だけではボイラーに不明な点があり、林兼商店の子会社で捕鯨船長を長年勤め、幾次郎に母船式捕鯨を提案した志野徳助が、雑誌や百科事典を元に手探りで調整した[2]二・二六事件と同じ1936年(昭和11年)2月26日に起工された捕鯨母船は、翌秋の出漁期にあわせるために昼夜突貫、建造中の巡洋艦の建造を一時中断して建造が急がれ、起工から156日目の8月1日に神戸市民5万人が式典に押し寄せる中進水[2]、9月28日に竣工した。

竣工後、日新丸は同年10月7日に出航し、1937年(昭和12年)までの南氷洋捕鯨に投入された。11月1日に寄港地のフリーマントルで船団長の志野が脳出血で急死する事態に見舞われたが、幾次郎の三男である中部利三郎が船団長を引き継ぎ、1,116頭を捕獲して鯨油1万5,280トンを製造した[8]。帰港後、アメリカ西海岸のロサンゼルスに向かい、石油タンカーとして石油製品の輸入に用いられた[9]。当時最新鋭かつ国産の捕鯨船である日新丸は人気があり、1937年(昭和12年)2月には「パノラマ大模型 日新丸の鯨狩」という題名で雑誌『少年倶楽部』の付録に採用されている[10]

1939年(昭和13年)から1940年(昭和15年)の南氷洋捕鯨では、ロス海湾口の氷結を恐れず南緯75度を南下してシロナガスクジラを多数捕獲した[11]

1940年(昭和15年)から1941年(昭和16年)の南氷洋捕鯨は、重油の配給や連日の時化、ロス海湾口の氷結など状況が悪い中、日新丸を含む6隻で9,328頭を捕獲し、鯨油10万4,100トン、鯨肉1万3,500トンを生産した。既に日本と欧米の国際関係が悪化しており、フリーマントル寄港はおろかオーストラリア領海から離れて航行するよう海軍から指示された。帰路にオランダ領東インドタラカン島で行われる予定だった給油は、シェル石油の連絡が無いという理由で拒否され、偶然遭遇した日本水産のタンカー厳島丸から540トンの給油を受けて帰国できた[12]

損傷

[編集]

国際情勢の悪化により1941年(昭和16年)度南氷洋捕鯨は中止となり[12][13]、同年11月25日、「日新丸」は海軍に徴用されて海軍一般徴用船となる。徴用後の同年12月から翌1942年(昭和17年)11月まで南洋方面への輸送任務に従事。4月11日、北緯33度27分 東経135度37分 / 北緯33.450度 東経135.617度 / 33.450; 135.617の潮岬沖でアメリカ海軍の潜水艦トラウト(USS Trout, SS-202)に発見され、魚雷1本が船尾に命中したものの、沈没には至らなかった[14][15]。11月下旬からは昭南ミリと本土の間での油輸送に従事する。1943年(昭和18年)2月7日、ミリで停泊中の「日新丸」は再度米潜トラウトに発見され、魚雷1本が日新丸の後部に命中して煙が上がり、中破した[16][17][18]。20日、ミリを出港し、24日に昭南に到着。セレター軍港で修理を受ける。

撃沈

[編集]

1944年(昭和19年)5月4日、タンカー橘丸(共同企業、6,539トン)、応急タンカー白馬山丸(太洋興業、6,650トン)、貨物船天晨丸(瑞光商船、4,236トン)他輸送船12隻と共にミ02船団を編成し、水雷艇第38号哨戒艇海防艦淡路の護衛でミリを出港。「日新丸」は船団中最大の船舶であった。16日[19]朝、船団は米潜クレヴァル(USS Crevalle, SS-291)に発見される。8時1分、クレヴァルは「日新丸」へ向け魚雷を発射。うち2本が後部に命中した「日新丸」は5分で沈没し、積荷の多量の石油を喪失した。船員15名が戦死。沈没地点はボルネオ北岸沖、北緯07度19分 東経116度52分 / 北緯7.317度 東経116.867度 / 7.317; 116.867

第二日新丸 (初代)

[編集]
第二日新丸(初代)
第二日新丸(初代)
基本情報
船種 捕鯨母船
クラス 日新丸型捕鯨母船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 大洋捕鯨
運用者 大洋捕鯨
 大日本帝国海軍
建造所 川崎造船所
母港 東京港/東京府
姉妹船 日新丸
信号符字 JTSL
IMO番号 43915(※船舶番号)
建造期間 295日
就航期間 2,247日
経歴
起工 1936年(昭和11年)12月16日
進水 1937年(昭和12年)6月9日
竣工 1937年(昭和12年)10月6日
その後 1943年(昭和18年)11月30日廃船
要目
総トン数 17,553トン
純トン数 14,315トン
載貨重量 21,989トン
垂線間長 163.07m
型幅 22.56m
型深さ 14.86m
高さ 12.19m(水面から1番デリックポスト最上端まで)
25.6m(水面から1番マスト最上端まで)
17.98m(水面から2番デリックポスト最上端まで)
30.78m(水面から2番マスト最上端まで)
喫水 10.521m
主機関 川崎MANディーゼル機関 1基
推進器 1軸
出力 7,210BHP
最大速力 13.616ノット
航続距離 13ノットで15,600海里
1941年12月2日徴用。
高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記)
テンプレートを表示

建造・操業

[編集]

第二日新丸は、淡路島近海で行われた日新丸の試運転中、中部幾次郎が性能に満足し「これなら2号船も欲しい」と言ったのを、吉岡が二つ返事で快諾し建造が決まった[2]。川崎造船所で1936年(昭和11年)12月16日に起工。1937年(昭和12年)6月9日に進水し、同年10月6日に竣工した。先に竣工した姉妹船の日新丸は波浪で揺れやすいといった意見があったため、「第二日新丸」では船首楼と後部甲板室を1層追加と船体を大型化して揺れを若干改善。それに伴い船内の配置や設備が変更された。またデリックの能力も日新丸では過大気味であったためか全般的に小さくしている[7]

竣工後は1937年(昭和12年)から1938年(昭和12年)の南氷洋捕鯨から投入されたが、台湾沖で陸軍に傭船され引き返し、第二次上海事変に伴う第10軍上陸用舟艇輸送に用いられた。傭船終了後は25日遅れで南氷洋に向かったが、この間にキャッチャーボート4隻に腸チフスが蔓延し、10名が死亡した[20]

1938年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の南氷洋捕鯨では、船団に所属するキャッチャーボートの第十一玉丸と第六利丸、第八利丸が3月10日に結氷に囲まれて脱出不能となり、57名の乗組員は3月13日午前9時40分に船を放棄し脱出、徒歩で氷原を移動し、1名の行方不明者も出さず午後8時に救助のキャッチャーボートに合流した[21]

1939年(昭和13年)から1940年(昭和15年)の南氷洋捕鯨では、3月に放棄した3隻のうち第八利丸を第三図南丸の船団が発見したため、曳航しながらの航行となり漁場への到着が遅れた。船団長の利三郎は不漁を危惧したが、探鯨船の関丸が東経80度から東経140度スタージー島英語版バッケル島英語版近海で、シロナガスクジラとナガスクジラの大群を発見し年末から約15日で6,000トンの鯨油を製造した[22]

1940年(昭和15年)から1941年(昭和16年)の南氷洋捕鯨では、ロス海でドイツ海軍仮装巡洋艦「シフ45」ことコメートに遭遇し、鯨肉を提供するなど交歓を行った[12]

撃沈

[編集]

国際情勢の悪化により1941年(昭和16年)からの南氷洋捕鯨は中止となり[12][13]、同年12月2日、「第二日新丸」は海軍に徴用されて海軍一般徴用船となる。徴用直後から翌1942年(昭和17年)12月まで南洋方面への輸送任務に従事。以降は昭南ミリと本土の間での油輸送に従事する。1943年(昭和18年)4月14日、第二日新丸は応急タンカー徳和丸(日東汽船、1,943トン)、同日鶴丸(日産汽船、1,946トン)と共に第147船団を編成し、護衛を受けず六連を出港。17日18時13分、第二日新丸は北緯23度56分 東経124度19分 / 北緯23.933度 東経124.317度 / 23.933; 124.317石垣島白保崎南方50海里の海上で浮遊機雷に触れ大破する[23]。機雷の爆発で船体は3つに分かれ、前部と後部が沈没し、一番大きい中央部のみが浮いていた。船団は第二日新丸を置き去りにして馬公へ向かい、第二日新丸は漂流する。18日6時、救援のため第36号哨戒艇が会合し警戒を受ける。同日17時15分、駆逐艦早苗が来着し、第36号哨戒艇は早苗に第二日新丸の警戒を任せ、第252船団の護衛のため離脱。22日0600、北緯23度25分 東経122度39分 / 北緯23.417度 東経122.650度 / 23.417; 122.650の地点で第39号哨戒艇が来着し、早苗から第二日新進丸の警戒任務を引き継ぎ、早苗は基隆に向かった。23日朝、北緯23度48分 東経122度42分 / 北緯23.800度 東経122.700度 / 23.800; 122.700与那国島南方沖で、2隻は米潜シーウルフ(USS Seawolf, SS-197)に発見される。シーウルフは第39号哨戒艇を雷撃し、同艦は被雷沈没した。シーウルフは最後に残った魚雷を第二日新丸に向けて発射し、命中はしたものの不発だった[24]。同日、基隆から早苗が来着し第39号哨戒艇の生存者救助と第二日新丸の警戒を行う。24日18時、駆逐艦帆風が来着し、早苗は任務を引き継ぎ高雄へ向かった。25日8時、救難船兼曳船の立神が到着し、第二日新丸は同船に曳航される。25日、高潮の際に立神と翔鳳丸の2隻で浅瀬に座礁させられる。その後離礁され、28日に立神に曳航されて基隆に到着。11月30日に廃船となった[25]。触雷時に船員41名が戦死した。

第二日新丸は戦前の日本にあった6隻の捕鯨母船で、最初の沈没船となった[19]

1940年から1941年の捕鯨の際に中部利三郎業務部長が記録した日誌は、2011年(平成23年)7月に利三郎の孫と中学生のひ孫によって存在が明らかになり[26]下関市立大学鯨資料室に寄贈された[27]。この漁場日誌は、他の中部家資料の一部と共に、2020年(令和2年)に翻刻、口語訳されて出版された[28]

第一日新丸

[編集]
第一日新丸(大攬丸)
基本情報
船種 タンカー/捕鯨母船
クラス 3TL型戦時標準タンカー
船籍 日本
所有者 大阪商船
大洋漁業
運用者 大阪商船
大洋漁業
建造所 三菱重工業長崎造船所
母港 大阪港/大阪府
東京港/東京都
姉妹船 3TL型戦時標準タンカー5隻
航行区域 遠洋
信号符字 JXNW→JDDF
IMO番号 58435(※船舶番号)
改名 大攬丸→第一日新丸→錦城丸
建造期間 1,019日
経歴
起工 1945年1月5日
進水 1946年8月28日
竣工 1946年10月20日
その後 1965年3月売却解体
要目
総トン数 10,912トン(1946年)
11,781トン
全長 150.8m
垂線間長 150.0m
型幅 20.4m
型深さ 12.0m
ボイラー 21号水管缶 2基(1946年)
主機関 タービン機関 1基(1946年)
三井B&W式ディーゼル機関 1基(1948年)
川崎MANディーゼル機関 1基(1958年)
推進器 1軸
出力 5,400BHP(1948年)
8,000BHP(1958年)
最大出力 10,000SHP(1946年)
定格出力 8,000SHP(1946年)
最大速力 14.0ノット
航海速力 12.0ノット
航続距離 16ノットで8,000海里(計画)
テンプレートを表示

建造

[編集]

元々は三菱重工業長崎造船所で大阪商船(現・商船三井)の石油タンカーである3TL型戦時標準船大攬丸(だいらんまる)で、同船は建造中に長崎市への原子爆弾投下に遭い放置されていた。

林兼商店から西大洋漁業統制、西大洋漁業を経て、1945年(昭和20年)12月に再改称した大洋漁業は、まず小笠原近海での捕鯨を行うこととしたが、保有していた日新丸・第二日新丸を含む6隻の捕鯨母船は全滅していた。そんな折「日本鋼管鶴見造船所で修理中の捕鯨船の隣にスリップウェイのついた軍艦がいる」という情報が持ち込まれた。大洋漁業はその「スリップウェイのついた軍艦」こと、第一号型輸送艦第九号輸送艦第十六号輸送艦第十九号輸送艦を改造したものを借用し、1946年(昭和21年)3月から捕鯨母船として小笠原近海捕鯨を行った。冷凍設備が無く冷蔵と塩漬に限定され、低緯度の高温地域での操業のため甲板が高温になり、鯨肉は腐敗しやすく、腐臭で倒れる作業員もいた[29]

小笠原捕鯨の成功を受けて、農商務省は大洋漁業の働きかけを受けて、鯨肉生産による食料(特にタンパク質と脂肪)確保と鯨油輸出による外貨獲得を目的とする南極海での捕鯨再開を計画し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)天然資源局も応諾した[30]財閥解体の対象となった日本水産(現・ニッスイ)も参加することになったが、借用していた輸送艦は連合国に賠償艦として引き渡されることになったことから使えず、南氷洋捕鯨用の捕鯨母船を必要とした。そこで日本水産は橋立丸、大洋漁業は大攬丸に目をつけ、同船を購入して捕鯨母船へ改造することになった。オーストラリア政府は終戦から1年にもならない敗戦国が1万トン以上の大形船建造することに反対したが、ジョージ・マーシャル米国務長官が「反対国は日本に1,000万ドルの食料援助をしてもらう」と説得し[31]、GHQは捕鯨母船の建造を許可した。改造されることになった大攬丸だったが、資材不足の上に食糧事情もあり、造船所の工員の効率も上がらなかった。造船所は長崎県に米飯の特別配給を要請して、大洋漁業の長く使うための良質鋼材の調達要請も黙殺した[32]。大攬丸は第一日新丸と改名され、1946年(昭和21年)10月15日に竣工。大攬丸時代にGHQの日本商船管理局(SCAJAP)により与えられたSCAJAP-N068の管理番号を継承した。

操業

[編集]

市民の盛大な声援を受けて長崎港を出航した第一日新丸だったが、一昼夜後に機関故障を起こし長崎港に戻ったため1-2週間遅れで南氷洋に到着[32]したり、ボイラーの不調で蒸気が漏れたり鯨油が逆流したりして休漁になる[33]など、急造船のため事故が続出した。1947年(昭和22年)までの南氷洋捕鯨で、第一日新丸と橋立丸はシロナガスクジラ換算で932頭を捕獲したが、これは同じ漁期に南氷洋で捕獲された1万5,304頭の約6%に過ぎなかった[34]。しかし肉牛換算で13万頭分のタンパク質がもたらされ、1946年の大洋漁業の売り上げの約36%を捕鯨関係が占めた[35]

1947年(昭和22年)の帰港後、第一日新丸は7ヶ月かけて設備の修繕や主機関を増設などの整備を行った。11月6日、第一日新丸は1948年(昭和23年)の南氷洋捕鯨に横須賀港を出航したが、前年の捕鯨による食料入手と外貨収入に満足したGHQは軍楽隊の演奏で送迎し、市民の熱烈な送迎で出航は1時間遅れた。この漁期では大きな故障も無く、便乗したGHQの指導官により条約の遵守と作業の効率化が図られたため、第一日新丸と橋立丸はシロナガスクジラ換算で1,017頭(同じ漁期に南氷洋で捕獲された総頭数の約6.2%)を捕獲した[36]

1948年(昭和23年)8月、従来のボイラーと主機を撤去し、三井製ディーゼル機関を装備した。1949年(昭和24年)までの南氷洋捕鯨を終えて4月13日に横須賀港に帰港した第一日新丸の歓迎式で、GHQ天然資源局のスケンク中佐は以下のように挨拶した[37]

マッカーサー元帥は諸氏の使命完遂に満足している。国際捕鯨条約にのっとって行動された諸氏の記録は模範的であり、その操業率、および鯨利用度は日本捕鯨史上かつて到達した最高のものである。

当時、オーストラリア政府から戦争賠償として本船と橋立丸を譲渡するよう要求があったが、アメリカ合衆国政府の反対により実現を免れている[38]

1950年(昭和25年)にはレーダーの搭載をGHQから許可され、RCA製のレーダーを搭載して操業した。1951年(昭和26年)までの南氷洋捕鯨で第一日新丸と橋立丸が捕獲した鯨は1,300頭に減少した。しかし朝鮮戦争の勃発で油脂価格が高騰したため、大洋漁業の総売上高に捕鯨部門が占める割合は、戦前戦後最高の33%に及んだ[39]。6月11日、新造された日新丸の就役に伴い、石油タンカーへ改造すると同時にB.V.船級取得改造工事を受け、錦城丸と改名した。

1954年(昭和29年)4月30日、前年の日新丸の好成績に影響され、川崎造船所で再度捕鯨母船へ改造。1955年(昭和30年)までの南氷洋捕鯨は日新丸と錦城丸、図南丸の3船団で前年から46%増加の2,776頭を捕獲した[40]

1958年(昭和33年)10月、川崎製ディーゼル機関に換装。

1961年(昭和36年)、第三日新丸の就役で南氷洋捕鯨から外された[41]

1965年(昭和40年)3月、解体のため三菱商事に売却され、のちに大阪で解体された。

日新丸 (2代)

[編集]
日新丸(2代)
基本情報
船種 タンカー/捕鯨母船
クラス 日新丸型捕鯨母船
船籍 日本
所有者 大洋漁業
運用者 大洋漁業
建造所 川崎造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 なし
信号符字 JCMC
IMO番号 67661(※船舶番号)
建造期間 347日
経歴
起工 1950年(昭和25年)10月19日
進水 1951年(昭和26年)6月21日
竣工 1951年(昭和26年)9月30日
その後 1973年(昭和48年)4月売却
要目
総トン数 16,777トン
載貨重量 22,993トン
垂線間長 175.0m
型幅 23.40m
型深さ 12.62m
喫水 10.6m
主機関 川崎MANディーゼル機関 1基
推進器 1軸
出力 10,060PS
最大速力 14.0ノット
航海速力 13.0ノット
テンプレートを表示

1951年(昭和26年)9月30日、川崎造船所にて竣工。竣工と同時にSCAJAPによりSCAJAP-N132の管理番号を与えられた。タンカー改造の第一日新丸に対し、シロナガスクジラを1日に30頭処理する設備を有した[42]

1953年(昭和28年)から1954年(昭和29年)の漁期では、日新丸と橋立丸で1,896頭を捕獲した。特に日新丸は1,085頭を捕獲し、日本の捕鯨母船で初めて1,000頭の大台に乗り、バリーナ(英国、後の第三極洋丸[43])、アブラハム・ラーセンノルウェー語版(南アメリカ、後の第二日新丸[44])、コスモスIV(ノルウェー)に次ぐ捕獲量を誇った[40]

1961年(昭和31年)から1962年(昭和37年)の南氷洋捕鯨は、第二日新丸が火災で帰国したため、そのロスを補うため西経漁場の西経0度線から西経60度線まで進出し、欧州の捕鯨船団の撤退や縮小で回復していたナガスクジラの好漁場を発見した[41]

1971年(昭和46年)に鯨油タンカーに改造。

1973年(昭和48年)4月、中華人民共和国の企業に売却。以降の消息は不明だが、1981年(昭和56年)時点では現役だった。

第二日新丸 (2代目)

[編集]

元はドイツ船籍の捕鯨母船ウニタスで、1937年の建造当時世界最大の捕鯨母船だった。第二次大戦中にイギリス拿捕されエンパイヤ・ビクトリー(Empire Victory)に改名され、1946年に南アフリカ共和国に譲渡の上アブラハム・ラーセン(Abraham Larsen)と再改名された[45]。1953年から1954年の南氷洋捕鯨で漁獲量2位だった[40]捕鯨母船を、1956年(昭和31年)に大洋漁業が6隻のキャッチャーボート込みで買収した[44]。優秀な捕鯨船団である第二日新丸の就役で、日本の捕鯨船団は戦前の最盛期とと同じ6船団まで回復し、1956年から1957年(昭和32年)の南氷洋捕鯨の捕獲頭数合計は4,637頭と前漁期の29%も増加した[40]

1961年(昭和41年)10月30日[46]ソロモン海域で火災が発生し、一昼夜半炎上し続けた[41]。船内を密封して酸素を絶とうとしたが失敗し、放水による消火を図ったが、効果が無く注水で船体が傾き始めた。そこで甲板に穴を開けて蒸気を送り込み、3日目に鎮火した。鎮火後、キャッチャーボートで日本に曳航され、佐世保重工業で修復に入った。火元のデッキは酸素やアセチレンボンベが誘爆して大破していた[47]が、11月24日に修復を終えて再出発した[46]

ペンギンを持ち帰ることがあり、長崎水族館で39年間に渡って飼育され世界最長飼育記録を残したキングペンギン「ぎん吉」や、同館で28年間に渡って飼育されたエンペラーペンギン「フジ」は第二日新丸に捕獲され渡来した個体だった[48]

1965年(昭和40年)、国際捕鯨委員会(IWC)会議で捕獲枠が前年より1,000頭減少の3,500頭まで削減され、ザトウクジラ1年、シロナガスクジラ5年の禁漁が決まったことにより、極洋捕鯨(現・極洋)の第二極洋丸と共に南氷洋捕鯨から撤退した[49]。その後すり身工船に改装され、1986年にスクラップとして台湾に売却された[45]

  • 総トン数 27,035トン[44]

第三日新丸

[編集]
第三日新丸
コスモスIII(後の第三日新丸、1947年頃)
基本情報
船種 捕鯨母船
クラス 第三日新丸型捕鯨母船
船籍 ノルウェー
日本
所有者 Kosmos whaling company(1947年-1961年)
大洋漁業(1961年-1976年)
日本共同捕鯨(1976年-1987年)
共同船舶(1987年-1991年)[46]
運用者 Kosmos whaling company
大洋漁業
日本共同捕鯨
共同船舶
建造所 A/B Gotaverken
母港 サンデフィヨルド港/サンデフィヨルド
東京港/東京都
姉妹船 なし
信号符字 JNTO
IMO番号 5253494
86899(※船舶番号)
改名 Kosmos III→第三日新丸
経歴
進水 1947年(昭和22年)11月
その後 1991年(平成3年)売却解体
要目
総トン数 23,108トン
載貨重量 23,332トン
全長 194.6m
垂線間長 182.77m
型幅 23.77m
型深さ 17.68m
満載喫水 9.6m
主機関 ディーゼル機関 1基
推進器 1軸
出力 6,750BHP
最大速力 13.2ノット
航海速力 12.0ノット(満載)
テンプレートを表示

元々はスウェーデンイェータヴェルケン英語版社で建造され、1947年(昭和22年)に進水した捕鯨母船コスモスIIIスウェーデン語版(Kosmos III)。竣工後はノルウェーのKosmos whaling companyが所有し、南氷洋での捕鯨に使用された。

1961年(昭和36年)、大洋漁業は綿城丸の代替のために同船を購入し、第三日新丸に改名して運航した[45]

1976年(昭和51年)6月の日本共同捕鯨設立に伴い、日本水産の第二図南丸、極洋の第三極洋丸の船団と共に同社に売却された[46][50]

第三日新丸の船団による第42次南氷洋捕鯨が1987年(昭和62年)3月14日に終了したことで、南氷洋商業捕鯨の幕が降ろされた。日本共同捕鯨の解散後、共同船舶に移籍して調査捕鯨の調査母船となったが、船齢40年以上の老朽化と過剰性能で、1991年平成3年)、解体のため中国の企業に売却された[46]

日新丸 (3代)

[編集]
日新丸(3代)
日新丸(3代)の概要図
基本情報
船種 捕鯨母船
クラス 筑前丸型トロール船
船籍 日本
所有者 日本水産
共同船舶
運用者 日本水産
共同船舶
建造所 日立造船因島工場[51]
母港 東京港/東京都
姉妹船 なし
信号符字 JJCJ
IMO番号 8990079
130177(※船舶番号)
MMSI番号 431501779
改名 筑前丸→日新丸
経歴
起工 1987年(昭和62年)4月
進水 1987年(昭和62年)8月
竣工 1987年(昭和62年)12月[1]
運航終了 2023年(令和5年)11月6日[52]
要目
総トン数 7,659トン(1987年)
8,030トン(2005年)
8,145トン(2023年)[53][52]
載貨重量 5,999トン(1987年)
全長 129.58m
垂線間長 117.0m
型幅 19.40m
型深さ 11.70m
主機関 日立M-B&W式ディーゼル機関 1基
推進器 1軸
出力 7,320PS
最大速力 17.49ノット
航海速力 14.3ノット
積載能力 1,600t(冷凍庫[54]
テンプレートを表示

元々は日本水産アメリカ合衆国からの商業捕鯨撤退の交換条件として出された遠洋漁業に使用するために、日立造船因島工場(現・ジャパン マリンユナイテッド因島事業所)で建造され[51]1987年(昭和62年)12月に竣工したトロール船筑前丸だった[1]。しかしアメリカはパックウッド・マグナソン法を制定し、排他的経済水域での遠洋漁業の認可さえも取り消したため、行き場を失っていた。そこで、第三日新丸の代替として日立造船因島工場で捕鯨母船に改造し、日新丸に改名した。トロール船から改装された経緯から、これまでの捕鯨母船と比べると1万トンに満たない、かなり小型の捕鯨母船である。1991年(平成3年)の第5回南極海鯨類捕獲調査から捕鯨に従事し[1]2019年令和元年)まで毎年日本鯨類研究所傭船され、27回にわたり[53][52]、調査捕鯨の調査母船として運用された。2019年(令和元年)7月の日本の商業捕鯨再開以降は、日本近海の沖合水域で[52]、母船式捕鯨の母船として運用された。

改装・改名後も船主は日本水産のままだったが、2005年(平成17年)に共同船舶に売却された。

火災事故

[編集]

1998年(平成10年)11月20日深夜、珊瑚海にて船内の製油工場付近で出火し1時1分に火災報知器が作動した[55]。火災区間の封鎖を図ったが、失敗した[56]した上に主機が停止し自力航行が不可能となった[57]。1時41分には消火用ポンプが停止し自力での消火が不可能となり[58]、2時40分に一番近くを航行していた第二十五利丸が接舷[59]、運航行要員の23名を残して乗組員を第二十五利丸に移し[60]、第一京丸を使って消火に当たらせた。火災は11月29日に消し止められたが、甲板手1名が自殺した。11月30日にタグボートニューカレドニアヌメアへ曳航され、12月2日に入港した。

12月7日、環境テロリスト団体であるグリーンピースのメンバー4人が日新丸と第一京丸に侵入し、1人は第一京丸の砲台に自らの体を括り付け、他は同船のスクリュープロペラで固定した。第一京丸が放水で対抗する中、その後も同会はデモ活動を続け、アンカーチェーンにぶら下っていた活動家を交代させた。この際にグリーンピースの妨害船に乗っていた日本人女性が調査捕鯨船団に対して脅迫状を交付したため、水産庁と鯨研は抗議し、その後グリーンピース・ジャパンが謝罪した。また、地元裁判所からの撤退命令もあり、グリーンピースは撤収した。12月8日9時50分、日新丸はヌメアを出航[61]し、12月20日9時に日立造船因島工場に入渠。直ちに修復作業に入り、1999年(平成11年)1月5日に再び南氷洋へ出航した[62]。造船所及び各機械メーカーの全面協力により正月休暇を返上しての突貫工事で応急復旧を行ったが、全面的な修復は、その年の北洋海域の調査捕鯨後になった[63]

2007年(平成19年)2月15日、南極海ロス海において日新丸の加工工場から出火し、作業員1名が死亡した。グリーンピースがニュージーランド沖を航行する同団体の船による曳航を申し出たが、日本政府はこれを拒否した[64]。2月24日に自力航行が可能になったものの、南極海鯨類捕獲調査は860頭の捕獲予定頭数の約半分のみ捕獲して、船団は1ヶ月早く帰国の途に就いた。水産庁の担当者は、日新丸は3月末に復旧して5月の北洋海域の調査捕鯨や秋からの次の南氷洋調査捕鯨には問題無いとコメントしたが、オーストラリアのマルコム・ターンブル環境大臣(当時)は調査捕鯨の早期終了を歓迎し、シー・シェパードは「クジラを愛する人々すべてにとっての朗報」、グリーンピースは「調査が本来の目的ならば、船団はデータ収集を継続していた。(調査船団の帰還は)調査ではなく捕鯨が目的だということが分かる。」と声明を出した[65]

ハラール認証取得

[編集]

2013年(平成25年)11月24日、ハラールの認証書を取得した[66]

妨害活動

[編集]

引退

[編集]
日立造船因島工場に停泊する日新丸(2023年4月22日)

維持管理に1年間で7億円がかかるなど老朽化が著しく[54]、代替船の建造が進んだことから、2023年(令和5年)11月6日に最後の航海を終えた。ニタリクジラ187頭とイワシクジラ24頭を捕獲して下関港に帰港し[52][67]、引退セレモニーが開催された。33年間で1万7,072頭の鯨類の解体に当たった[1]。引退後はパラオに無償提供され冷凍倉庫として用いられる計画もあった[53]が、部品や設備の一部を後継の関鯨丸で転用し[67]、同年12月より北九州市の工場で解体が始まり[1]2024年(令和6年)5月に廃船となる予定である[67]

代替船新造計画

[編集]

三代目日新丸の就航から年数が経過し、老朽化が進んでいることから、3倍の大きさの1万6,000トン級捕鯨母船の建造計画もあったが、実現には至らなかった。2012年には、共同船舶で新捕鯨母船の建造が計画され、造船所による設計作業も進められたが、捕鯨に関する環境が複雑であることから、実際に建造されることは無かった[54]

2019年(令和元年)8月、三代目日新丸を保有する共同船舶は商業捕鯨の再開に伴い、2024年(令和6年)を目処にナガスクジラなどの大型鯨類の処理が可能な代船建造を行う考えを示した[68]2021年(令和3年)5月10日、共同船舶は南極海まで航行して漁場で作業を行う新母船の建造費を60億円とし、全額を鯨肉卸値の2割値上げや借入金、クラウドファンディングにより自己資金で調達することを発表した[69]。船体の大型化による航続距離の確保やナガスクジラ解体への対応を図り、2024年3月の竣工を予定している[70]。 船は下関の旭洋造船で造られ、下関を母港とする予定である[71]

60億円で建造される捕鯨母船は関鯨丸(かんげいまる[53])と命名され、2023年8月に進水[54]、2024年3月に竣工した[72]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 白石昌幸 (2023年11月6日). “日本捕鯨支えた「日新丸」、下関で引退セレモニー”. 朝日新聞デジタル. https://www.asahi.com/articles/ASRC57DZDRC5TZNB004.html?iref=pc_ss_date_article 2023年11月11日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f #板橋p.68-69
  3. ^ a b Kyokuyo_Maru_class
  4. ^ #板橋p.65-66
  5. ^ #板橋p.66-67
  6. ^ #板橋p.67-68
  7. ^ a b 本邦建造捕鯨母船の系譜
  8. ^ #板橋p.70-71
  9. ^ 野間恒「商船の映像(11) ロサンゼルス港の日本商船(2)」 船舶技術協会『船の科学』第37巻第6号 1984年 p.22
  10. ^ 小関新人「解説」 小関与四郎『クジラ解体』 春風社 2011年 ISBN 978-4-86110-261-5
  11. ^ #板橋p.95
  12. ^ a b c d #板橋p.97-99
  13. ^ a b #松井p.79
  14. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter IV: 1942” (英語). HyperWar. 2011年11月19日閲覧。
  15. ^ #横鎮1704(1)pp.22-24
  16. ^ #戦史54
  17. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter V: 1943” (英語). HyperWar. 2011年11月20日閲覧。
  18. ^ #SS-202, USS TROUTp.109,116
  19. ^ a b #板橋p.150
  20. ^ #板橋p.72
  21. ^ #板橋p.92-93
  22. ^ #板橋p.94-95
  23. ^ Nikkaku_Maru
  24. ^ #SS-197, USS SEAWOLF, Part 1p.244
  25. ^ 写真提供:藤木洋一/船の科学館「写真シリーズ 思い出の日本貨物船その242」『世界の艦船』第846集(2016年10月特大号) 海人社 155頁
  26. ^ #岸本P.13
  27. ^ #岸本P.3
  28. ^ #岸本P.214
  29. ^ #板橋p.108
  30. ^ #板橋p.108-109
  31. ^ #板橋p.109-110
  32. ^ a b #板橋p.110
  33. ^ #板橋p.112
  34. ^ #板橋p.111
  35. ^ #板橋p.112
  36. ^ #板橋p.116
  37. ^ #板橋p.118-119
  38. ^ 柴(1986年)p.292
  39. ^ #板橋p.119
  40. ^ a b c d #板橋p.146
  41. ^ a b c #板橋p.177
  42. ^ #板橋p.125
  43. ^ #板橋p.152
  44. ^ a b c #板橋p.150
  45. ^ a b c #小島p.16
  46. ^ a b c d e #小島p.17
  47. ^ #小島p.18
  48. ^ 白井和夫『長崎水族館とペンギンたち』藤木博英社 2006年
  49. ^ #板橋p.184
  50. ^ #板橋p.201
  51. ^ a b 菅野みゆき (2023年5月24日). “捕鯨母船「日新丸」が最後の航海へ 襲撃や火事を乗り越えた30年余”. 朝日新聞デジタル. https://www.asahi.com/articles/ASR5R6SF6R5QPITB012.html 2023年11月11日閲覧。 
  52. ^ a b c d e “世界唯一の捕鯨母船「日新丸」引退…南極海へ航海27回、火炎瓶投げ入れられる妨害も”. 讀賣新聞. (2023年11月4日). https://www.yomiuri.co.jp/national/20231104-OYT1T50189/ 2023年11月11日閲覧。 
  53. ^ a b c d 西部本社編集局 (2023年11月6日). “世界唯一の捕鯨母船「日新丸」ラスト航海へ…1987年に建造、反捕鯨団体の妨害も”. 讀賣新聞. https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20230807-OYTNT50028/ 2023年11月11日閲覧。 
  54. ^ a b c d “【山口】新捕鯨母船「関鯨丸」 くじらの街の行く先”. 山口朝日放送. (2023年9月22日). https://www.youtube.com/watch?v=rEZ2wgXIOXM 2023年11月11日閲覧。 
  55. ^ #小島p.27
  56. ^ #小島p.36
  57. ^ #小島p.33
  58. ^ #小島p.38
  59. ^ #小島p.42
  60. ^ #小島p.44
  61. ^ #小島p.164
  62. ^ #小島p.181
  63. ^ #小島p.176
  64. ^ 火災発生の捕鯨船「日新丸」の乗組員、遺体で発見 - ニュージーランド”. AFPBB. AFP (2007年2月17日). 2024年6月29日閲覧。
  65. ^ 調査捕鯨船日新丸が早期帰還へ、水産庁は調査捕鯨の継続強調 - 東京”. AFPBB. AFP (2007年3月1日). 2024年6月29日閲覧。
  66. ^ “調査捕鯨母船「日新丸」、ハラル認証を取得”. AFPBB. (2014年1月23日). https://www.afpbb.com/articles/-/3007075 2023年11月11日閲覧。 
  67. ^ a b c “【山口】捕鯨母船の日新丸が引退”. 山口朝日放送. (2023年11月6日). https://www.youtube.com/watch?v=JFjrxczi4jQ 2023年11月11日閲覧。 
  68. ^ [https://www.minato-yamaguchi.co.jp/minato/e-minato/articles/94094 “共同船舶 大型捕鯨母船建造へ 24年稼働目標 公海のナガスを想定”]. みなと新聞. (2019年8月28日). https://www.minato-yamaguchi.co.jp/minato/e-minato/articles/94094 2021年5月10日閲覧。 
  69. ^ “捕鯨新母船建造へ 60億円、24年操業―共同船舶”. 時事通信社. (2021年5月10日). https://web.archive.org/web/20210510125222/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021051000893&g=eco 2021年5月10日閲覧。 
  70. ^ 「内外商船ニュース 共同船舶が捕鯨母船を新造へ」 『世界の艦船』第953集(2021年8月特大号) 海人社 P.184
  71. ^ 共同船舶が下関出張所 捕鯨母船建造円滑化へ”. 読売新聞 (2022年11月15日). 2022年11月21日閲覧。
  72. ^ 白石昌幸 (2024年3月30日). “あらたな捕鯨母船「関鯨丸」が完成 「拠点」として5月に初出漁へ”. 朝日新聞デジタル. 2024年7月15日閲覧。

参考文献

[編集]
船尾のスロープから解剖甲板へ鯨を引き上げる日新丸(3代)。
  • (Issuu) SS-197, USS SEAWOLF, Part 1. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-197_seawolf_part1 
  • (Issuu) SS-202, USS TROUT. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-202_trout 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030316700『自昭和十七年四月一日至昭和十七年四月三十日 横須賀鎮守府戦時日誌』。 
  • 板橋守邦『南氷洋捕鯨史』中央公論社中公新書842〉、1987年6月。ISBN 4121008421 
  • 柴達彦『捕鯨一代―聞書・砲手 泉井守一』青英社、1986年。ISBN 978-4882330189 
  • 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。ISBN 4-425-31271-6 
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書62 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降朝雲新聞社、1972年。 
  • 小島敏男 編『調査捕鯨母船 日新丸よみがえる』成山堂書店、2003年。ISBN 978-4-425881-31-4 
  • 岸本充弘 編『戦前期南氷洋捕鯨の航跡 マルハ創業者・中部家資料から』花乱社、2020年。ISBN 978-4-910038-14-8 

外部リンク

[編集]