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星甲実義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

星甲 實義(ほしかぶと さねよし、1902年7月21日 - 1944年9月23日)は、鹿児島県鹿児島市出身で井筒部屋に所属した元大相撲力士。本名は中尾 實義(なかお さねよし)。身長176cm、体重116kg。最高位は東前頭2枚目。

来歴

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1918年5月、井筒部屋から初土俵をふむ。突き押しが得意で、1925年5月場所に新十両、1926年5月場所には7勝土付かずの好成績をあげて、1927年1月、東西合同の場所に新入幕を果たした。

1927年5月場所には新大関常陸岩を初日に破るなど、しばしば殊勲の星をあげたり、1928年5月場所にはまたも常陸岩を破り、終盤まで1敗で全勝の横綱常ノ花を追走し、10日目(当時は11日制である)の直接対決で敗れるまで優勝争いにからむなど活躍をみせたが、1929年1月場所、常陸岩との対戦で負傷し、それがたたってその後は満足な相撲もとれず、師匠の死もあって1931年3月場所限りで28歳で引退、すぐに井筒部屋を継承した[1]

師匠としては、幕内鶴ヶ嶺道芳小松山貞造たちを育て、井筒部屋を中堅部屋としてもりたて[2]、途中で浅香山部屋から源氏山祐蔵を引き取った。また、それまで属していた高砂一門から双葉山相撲道場の一門(現在の時津風一門)に転属した。1944年、42歳で急死。力士たちは双葉山道場に引き取られた[1]

主な成績

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  • 通算成績:120勝96敗3預65休 勝率.556
  • 幕内成績:67勝66敗65休 勝率.504
  • 現役在位:34場所
  • 幕内在位:18場所
  • 各段優勝
    • 十両優勝:1回(1926年5月場所)
    • 三段目優勝:1回(1922年5月場所)

場所別成績

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星甲実義
春場所 三月場所 夏場所 秋場所
1918年
(大正7年)
x x (前相撲) x
1919年
(大正8年)
(前相撲) x 東序ノ口28枚目
1–4 
x
1920年
(大正9年)
東序ノ口12枚目
3–1
1預
 
x 東序二段34枚目
2–3 
x
1921年
(大正10年)
東序二段37枚目
4–1 
x 東三段目47枚目
2–3 
x
1922年
(大正11年)
西三段目52枚目
4–1 
x 東三段目6枚目
優勝
5–0
x
1923年
(大正12年)
東幕下25枚目
5–4 
x 西幕下24枚目
4–2 
x
1924年
(大正13年)
西幕下5枚目
1–4 
x 西幕下18枚目
3–2
1預
 
x
1925年
(大正14年)
西幕下9枚目
4–1
1預
 
x 西十両11枚目
3–3 
x
1926年
(大正15年)
西十両13枚目
5–1 
x 西十両5枚目
優勝
7–0
x
1927年
(昭和2年)
東前頭14枚目
8–3 
東前頭14枚目
6–5 
東前頭5枚目
2–6–3[3] 
西前頭8枚目
8–3 
1928年
(昭和3年)
西前頭8枚目
6–5 
東前頭2枚目
5–6 
東前頭9枚目
9–2 
東前頭9枚目
4–7 
1929年
(昭和4年)
西前頭2枚目
0–5–6[4] 
西前頭2枚目
0–0–11[5] 
西前頭11枚目
2–5–4[6] 
西前頭11枚目
6–5 
1930年
(昭和5年)
西前頭9枚目
6–5 
西前頭9枚目
5–6 
西前頭6枚目
0–0–11 
西前頭6枚目
0–0–11 
1931年
(昭和6年)
東前頭15枚目
0–3–8[7] 
東前頭15枚目
引退
0–0–11
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

脚注

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  1. ^ a b ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p69
  2. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p37
  3. ^ 腹痛より3日目から途中休場、6日目から再出場
  4. ^ 左膝関節亀裂骨傷により5日目から途中休場
  5. ^ 左膝関節亀裂骨傷により初日から全休
  6. ^ 左膝関節脱臼により初日から休場、5日目から再出場
  7. ^ 左肘関節及び右膝関節負傷により3日目から途中休場

関連項目

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外部リンク

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