星野勇三
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星野 勇三(ほしの ゆうぞう、1875年10月30日[1] - 1964年11月2日)は、日本の農学者、遺伝学者。農学博士。称号は北海道帝国大学名誉教授・羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。山形県東田川郡羽黒町(現・鶴岡市)出身。
人物
[編集]北海道の果樹産業に貢献するとともに、日本にメンデルの法則を紹介した人として知られる。札幌市の大通公園の花壇創設者であり、山形県酒田市の日和山公園の設計者でもある。
イネを用いてキセニア現象を明らかにするなどの農学研究の傍ら、同郷山形県庄内地方出身の学生の育英事業にも力を注ぐ。現在財団法人札幌荘内寮として存続している。
経歴
[編集]- 1875年(明治8年) - 山形県羽黒町手向(「トウゲ」と読む。現・鶴岡市羽黒町手向)に生まれる。
- 1897年(明治30年) - 札幌農学校予科を卒業。
- 1901年(明治34年) - 札幌農学校卒業。同期に有島武郎がいる。欧州・米国へ留学。
- 1907年(明治40年) - 同校教授[2]。
- 園芸学講座の初代教授を務める。この園芸学研究室の卒業生に、青森りんごの祖であり戦後北大総長となる島善鄰がいる。
- 1915年(大正4年)11月30日 - 農学博士学位記授与[3]。
- 1936年(昭和11年) - 北海道帝国大学農学部長。
- 1938年(昭和13年) - 退官。同年名誉教授。(財)八紘学院(現・北海道農業専門学校)の学院長に就任する。
- 1962年(昭和37年) - 山形県羽黒町初の名誉町民となり、現在山形県鶴岡市名誉市民。
- 1964年(昭和39年)11月2日 - 死去。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1907年(明治40年)6月21日 - 正七位[4]
- 1909年(明治42年)10月20日 - 従六位[5]
- 1911年(明治44年)12月11日 - 正六位[6]
- 1914年(大正3年)2月20日 - 従五位[7]
- 1917年(大正6年)6月20日 - 正五位[8]
- 1922年(大正11年)9月30日 - 従四位[9]
- 1927年(昭和2年)11月15日 - 正四位[10]
- 1932年(昭和7年)12月2日 - 従三位[11]
- 勲章等
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[12]
- 1918年(大正7年)4月22日 - 勲四等瑞宝章[13]
- 1922年(大正11年)5月31日 - 勲三等瑞宝章[14]
- 1929年(昭和4年)6月29日 - 勲二等瑞宝章[15]
- 1961年(昭和36年) - 紫綬褒章
- 1964年(昭和39年)11月2日 - 銀杯一個[16]
著作物
[編集]- 「最近果樹栽培講義. 上巻」(1915年)博文館
- 「最近果樹栽培講義. 下巻」(1917年)博文館
- 「蔬菜花卉果樹栽培便覧」(1917年)北海道園芸会
- 「荘内寮と星野」(1969年)札幌荘内寮
脚注
[編集]- ^ 『人事興信録 第22版 下』人事興信所、1964年、ほ13頁。
- ^ 『官報』第7128号「叙任及辞令」1907年4月8日。
- ^ 『官報』第1001号「彙報 - 学事 - 学位授与」1915年12月2日。
- ^ 『官報』第7193号「叙任及辞令」1907年6月22日。
- ^ 『官報』第7899号「叙任及辞令」1909年10月21日。
- ^ 『官報』第8544号「叙任及辞令」1911年12月12日。
- ^ 『官報』第468号「叙任及辞令」1914年2月21日。
- ^ 『官報』第1466号「叙任及辞令」1917年6月21日。
- ^ 『官報』第3052号「叙任及辞令」1922年10月2日。
- ^ 『官報』第318号「叙任及辞令」1928年1月23日。
- ^ 『官報』第1779号「叙任及辞令」1932年12月3日。
- ^ 『官報』第1312号・付録「辞令」1916年12月15日。
- ^ 『官報』第1714号「叙任及辞令」1918年4月23日。
- ^ 『官報』第2948号「叙任及辞令」1922年6月1日。
- ^ 『官報』第750号「叙任及辞令」1929年7月1日。
- ^ 『官報』本紙 11393「叙位・叙勲」1964年12月3日。
参考資料
[編集]- 『広報つるおか』 2006年1月15日号