本多政材
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本多 政材 | |
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終戦後、捕虜として収監されていた頃の本多(右) | |
生誕 |
1889年5月17日 大日本帝国,長野県 |
死没 | 1964年7月17日(75歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1910 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
本多 政材(ほんだ まさき、1889年(明治22年)5月17日 - 1964年(昭和39年)7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
陸士22期・陸大29期。長野県出身。父は公務員であったが、祖父より前は信濃国飯山藩本多家の一門で、家老職を務めた家柄であった。
略歴
[編集]- 1910年(明治43年)5月 陸軍士官学校卒業(第22期)
- 1913年(大正2年)12月 陸軍中尉進級
- 1917年(大正6年)11月 陸軍大学校卒業(第29期)
- 1921年(大正10年)1月 フランス出張
- 12月 フランス駐在
- 1925年(大正14年)8月 陸軍少佐進級
- 1928年(昭和4年) 8月 陸軍中佐進級
- 1933年(昭和8年)8月 陸軍大佐進級。歩兵第22連隊長
- 1937年(昭和12年)8月 陸軍少将進級。歩兵第2旅団長
- 1939年(昭和14年)10月 陸軍中将に進級
- 12月 支那派遣軍総参謀副長
- 1940年(昭和15年)10月 第8師団長
- 1942年(昭和17年)6月 陸軍機甲本部長
- 1943年(昭和18年)3月 第20軍司令官
- 1944年(昭和19年)4月 第33軍司令官
- 1947年(昭和22年)8月 復員
- 復員前の1947年5月に、タモエ日本人墓地に大東亜戦争陣歿英霊之碑を建立し、揮毫した。
- 1948年(昭和23年)1月 公職追放の仮指定を受ける[1]
私生活・逸話
[編集]- 妻との間に一男二女があった。
- 学者肌の人物で、陸軍内の派閥に属することはなく、軍内の派閥争いには無縁であった。
- 酒と釣りを愛し、75歳で病死するまで、終生酒を手放すことが無かった。釣りも好きで戦地でも同輩の笠原幸雄等を誘って釣りに出ていた。
- 部下も辟易するほど猥談好きで、愛妻家である阿南惟幾に「一穴居士」というあだ名を付けたのも本多であった。
栄典
[編集]- 位階
- 1911年(明治44年)3月10日 - 正八位[2]
- 1914年(大正3年)2月10日 - 従七位[3]
- 1919年(大正8年)3月20日 - 正七位[4]
- 1924年(大正13年)5月15日 - 従六位[5]
- 1937年(昭和12年)9月1日 - 正五位[6]
- 勲章
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]
- 勲一等旭日大綬章 - 1943年(昭和18年)2月9日
- 功二級金鵄勲章
- タイ王冠勲章ナイト・コマンダー - 1940年(昭和15年)4月22日[8]