本多正直
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本多 正直(ほんだ まさなお、元和4年(1618年) - 延宝5年3月15日(1677年4月16日))は江戸時代前期の大身旗本。三弥左衛門家(本多正重系)3代目当主。
略歴
[編集]8000石の旗本・本多正貫の嫡男として誕生。母は本多政澄の娘。父・正貫は舟戸藩主・本多正重の養子だったが、正重の遺言により1万石の所領を8000石に削減されていた。正室は三条藩主稲垣重綱の娘。
万治元年(1658年)閏12月27日、従五位下伯耆守に叙任される[1]。寛文4年(1664年)2月30日に家督を継ぐ。寛文12年(1672年)に父・正貫が死去。
延宝5年(1677年)3月15日、60歳で死去。家督は正永が継ぎ、8000石の内1000石を次男正方に分与している。
子孫
[編集]- 正永は元禄元年(1688年)に寺社奉行となったことから1万石に加増され、舟戸藩主となる。元禄16年(1703年)に沼田藩へ移封された。宝永元年(1704年)には老中となり最終的に4万石を領した。後継は甥の正武[1]。
- 正方は菅沼定賞の娘を正室とし、嫡男に本多正矩がいる。正矩は沼田の正武の養子に入り、享保15年(1730年)に田中藩へ移封、幕末まで子孫が藩主を務めた。正矩の次男・黒田直純は久留里藩主に、三男・生駒親睦は矢島領主となる[1]。
- 娘は榊原久政室。本多正武の母である[1]。
- 娘は大給藩初代藩主松平乗次室[1]。
参考資料
[編集]- 『寛政重脩諸家譜』文化9年
- 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成』下巻、1996年