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本柳和也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本柳 和也
駿河台大学硬式野球部 コーチ
オリックス時代(2009年8月12日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県越谷市
生年月日 (1976-11-05) 1976年11月5日(48歳)
身長
体重
172 cm
65 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2001年 ドラフト9巡目
初出場 2002年7月22日
最終出場 2009年6月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

本柳 和也(もとやなぎ かずや、1976年11月5日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手投手)。

経歴

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プロ入り前

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江川卓のファンだった父親の影響で野球を始めた。運動神経抜群で、少年野球チームでは遊撃手と投手兼任、越谷市立富士中学校では中堅手で先頭打者を務めたが、本人は投手を希望していた。

中学3年時、甲子園で春日部共栄高校の小柄な投手が好投する姿を見て同校への進学を決意した[要出典]。高校時代は、土肥義弘の控え投手。2年時にチームは甲子園で準優勝するがベンチ入りならず、3年夏はベンチ入りして埼玉大会の準決勝では先発、決勝で浦和学院高等学校に0-7で敗れこの試合は登板なく甲子園出場を逃した。

その後、城西大学では3年春に1年上のエース・礒恒之と初優勝に貢献。大学選手権でも初戦敗退ながら2番手で登板。同期に小山田保裕川井貴志がいた。その後は日本通運へ進んだ。日通の監督・杉本泰彦から心構えや投球術を学び、投手としての幅を広げた。都市対抗野球には補強を含めて3年連続出場して、2001年はベスト4[1]2001年のドラフト会議オリックス・ブルーウェーブから9巡目指名を受け入団(契約金2000万円・年俸600万円)。

プロ入り後

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ルーキーイヤーの2002年はわずか4試合のみの登板だったが、翌2003年には40試合登板し5勝をあげ、プロ初完封勝利も記録した。8月1日福岡ダイエーホークス戦ではリリーフ登板し、プロ野球1試合ワースト記録の29失点目を記録した。

2004年投球回数134・2/3で自身初の規定投球回数到達。しかし6勝11敗と大きく負け越し、防御率も5.61と振るわなかった。4月18日大阪近鉄バファローズ戦(大阪ドーム)で先発を務めたが、試合前のスタメン発表で誤って「ほんごう」とコールされた。2005年からはオリックス・バファローズと契約。

2005年は故障のため12試合の登板にとどまったが、防御率は1.40の好成績を収め、プロ初セーブも記録した。

2006年先発リリーフで25試合に登板、3勝2敗・防御率3.69の成績をあげる。7月10日のロッテ戦で、ベニー・アグバヤニ死球をぶつけてあわや乱闘寸前までになったものの、その後ベニーが一塁ベンチの裏側まで来て、謝罪し握手を交わすというエピソードがあり、本柳は「ベニーはめちゃくちゃイイ選手です」と語っている[2]

2007年はリリーフに専念。開幕から勝ちパターンの中継ぎとして定着し、49試合に登板して防御率3.21と安定した成績を残した。

2008年も開幕から勝ちパターンの中継ぎとして活躍。チーム2位の58試合に登板し、特に交流戦では24試合中17試合に登板するタフさを発揮したが、防御率4.20と悪化した。

2009年6月10日の巨人戦で、2006年8月9日の西武戦以来、1036日ぶりに先発登板を果たしたが、2回3失点で敗戦投手に。同年は結局は僅か6試合の登板で、防御率16.88に終わり、翌2010年は一軍登板が無くシーズン終了後の10月2日、戦力外通告を受けた。

引退後

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現役引退後は会社員へ転身し、京都府舞鶴市に在住していたが、2015年より、元オリックス・高見澤考史が代表を務める有限会社アーデルバッティングドームに勤める[1]
2022年より城西大学時代の先輩である志賀康雄氏が監督を務める駿河台大学硬式野球部のコーチに就任。

人物

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2004年4月25日のロッテ戦で川越英隆が、720日ぶりの勝利を挙げた際には男泣きするほど熱い性格。実は本柳は翌日の先発投手であり、本来なら途中で上がる日であったが「こんな試合、見ずに帰ることなんて出来ませんよ」とそのまま最後まで試合を観戦していた[3]

2007年10月13日に結婚した。妻はプロゴルファー高井陽子で、高井とは同じプロスポーツ選手同士で励まし会い、アドバイスを受けることもあった。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
2002 オリックス 4 2 0 0 0 0 1 0 -- .000 57 13.0 18 4 2 0 0 16 0 0 11 11 7.62 1.54
2003 40 7 2 1 0 5 2 0 -- .714 469 108.2 125 11 25 2 3 75 4 2 64 56 4.64 1.38
2004 29 20 2 0 1 6 11 0 -- .353 599 134.2 170 22 32 2 13 86 2 1 91 84 5.61 1.50
2005 12 3 0 0 0 0 1 1 0 .000 95 25.2 20 3 2 0 0 14 0 0 4 4 1.40 0.86
2006 25 7 0 0 0 3 2 0 1 .600 309 75.2 69 11 18 1 2 47 1 1 34 31 3.69 1.15
2007 49 0 0 0 0 3 2 1 15 .600 248 61.2 55 5 12 3 2 55 3 0 22 22 3.21 1.09
2008 58 0 0 0 0 2 7 0 11 .222 299 70.2 70 8 17 3 2 55 0 1 35 33 4.20 1.23
2009 6 1 0 0 0 0 2 0 1 .000 41 8.0 14 2 5 0 0 2 0 0 15 15 16.88 2.38
通算:8年 223 40 4 1 1 19 28 2 28 .404 2117 498.0 541 66 113 11 22 350 10 5 276 256 4.63 1.31
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

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背番号

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  • 34 (2002年 - 2010年)

参考資料

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  • ベースボールマガジン社『週刊ベースボール』2008年9月22日号 「白球入魂 チームを下から支える 本柳和也」35-39ページ

脚注

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  1. ^ 2002プロ野球プレイヤーズ名鑑 スポーツニッポン新聞社
  2. ^ オリックス・本柳2勝目!ベニー死球で乱闘寸前も降板後に和解”. サンケイスポーツ. 2006年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年7月10日閲覧。
  3. ^ https://web.archive.org/web/20040614055355/http://www.nikkansports.com/osaka/obw/p-obw-040425-01.html

関連項目

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外部リンク

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