松平康郷 (久松松平家)
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄6年(1693年) |
死没 | 寛政元年6月13日(1789年7月5日) |
改名 | 尚慶(初名)→康郷 |
戒名 | 道仙 |
墓所 | 東京都板橋区小豆沢の総泉寺 |
官位 | 従五位下、伊勢守、安房守、豊前守、因幡守、中務少輔 |
幕府 | 江戸幕府 中奥御小姓、御小姓番頭、書院番頭、大番頭、駿府城代、西の丸御側 |
主君 | 徳川家継→吉宗→家重→家治 |
氏族 | 久松松平家康元流 |
父母 |
父:松平忠充、母:側室 養父:松平康顕 |
兄弟 |
忠章、康顕、康郷、岩城秀隆正室、 松平忠一正室、女子ら |
子 |
康眞、水野勝羨[1]、郷至、最上郷倍[2]、 戸田氏永[3]、娘(加藤泰亨妻)、娘(堀田一常妻)、娘(松平忠寄妻)、娘(伊東祐峯妻)ら |
松平 康郷(まつだいら やすさと)は、江戸時代中期の旗本。官位は従五位下・伊勢守、安房守、豊前守、因幡守、中務少輔。
略歴
[編集]伊勢国長島藩2代藩主・松平忠充の五男として誕生した。母は側室。初名は尚慶(なおよし)。
元禄15年(1702年)8月21日、父の改易に伴い長島藩は廃藩、代わって兄の康顕が信濃国佐久郡5000石(下県知行所)を、康郷も同地に1000石を賜り、各々寄合に列する。
元禄16年(1703年)3月28日、5代将軍・徳川綱吉に拝謁する。正徳2年(1712年)、康顕の養子となり、自身の1000石は収公されたが、正徳3年(1713年)2月24日、康顕の死去に伴い、遺領の5000石を相続し、同4月1日、改めて7代将軍・徳川家継に拝謁する。
享保元年(1716年)12月19日、中奥小姓、享保9年(1724年)閏4月7日、御小姓番頭となる。享保10年(1725年)から翌年にかけて2度、8代将軍・徳川吉宗の下総国小金原での鷹狩に随行し、享保11年(1726年)5月28日、書院番頭に移る。享保15年(1730年)1月11日、大番頭となる。
元文4年(1739年)9月6日から寛延4年(1751年)3月25日まで駿府城代を務めた後、江戸城西の丸の御側に移る。この際、吉宗から刀を拝領する。宝暦10年(1760年)、10代将軍・徳川家治が江戸城本丸に移るのに従い、政事を執啓する。宝暦12年(1762年)12月25日、家治次男の徳川貞次郎誕生の時、時服6領と白銀50枚を賜わる。
明和2年(1765年)1月28日、下総飯笹6000石(下総香取郡、上総国埴生郡、同長柄郡、武蔵国秩父郡)に加増転封となる。
安永元年(1772年)7月2日に致仕し、服5領と養老料として廩米500俵を賜り、また天明6年(1786年)家治50歳の祝宴の際、八丈縞3端を賜る。
寛政元年(1789年)に江戸で死去。享年97。法名は道仙。橋場の総泉寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「寛政重修諸家譜 巻第52」