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松平忠充

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 忠充
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安4年(1651年
死没 享保14年12月4日1730年1月22日
改名 勝千代(幼名)→忠充
別名 通称:数馬
戒名 永固院殿史道基覚翁大居士
墓所 東京都文京区小日向の徳雲寺
官位 従五位下佐渡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
伊勢長島藩
氏族 久松松平家康元
父母 父:松平康尚:不詳
兄弟 忠充良重榊原良兼[1]定員[2]、某、松平綱近正室、植村政行室、酒井忠垠正室ら
正室松平典信の娘
忠章康顕康郷岩城秀隆正室、松平忠一正室、女子ら
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松平 忠充(まつだいら ただみつ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名伊勢国長島藩の第2代藩主官位従五位下佐渡守

生涯

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慶安4年(1651年)、伊勢長島藩の初代藩主・松平康尚の次男として長島で誕生。貞享2年(1685年)10月7日、父が病気を理由に隠居したため家督を継いだ。

しかし貞享4年(1687年)10月には些細なことから家臣3人を追放するなど、早くも暗君としての片鱗を現していた。この資質は父の死後の元禄15年(1702年)8月15日、重臣3人を切腹させ、さらにその子4人を死刑にするという乱行で現れる。この事件の遺族が幕府に訴えたため、この乱行は幕府の知るところとなり、8月21日に狂気であるとして改易に処された。

しかし徳川家康の異父弟松平康元に繋がる家系のため、特別の配慮をもって四男・康顕(やすあき)信濃国佐久郡5,000石(下県知行所)、五男の尚慶(なおよし)も同地1,000石の旗本として存続を許された。康顕はその後早世し、尚慶が兄の跡を継ぎ康郷(やすさと)と名乗り、明和2年(1765年)下総国飯笹6,000石に転封。子孫は同地で交代寄合旗本として存続した。

享保14年(1729年)12月4日に死去した。享年79。

系譜

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脚注

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  1. ^ 越後高田藩榊原家の家老上席家で、18歳で早世した榊原直久の養子となった。直久も養子であり実父は松平康久である。尾張徳川家家臣の康久は良兼の祖父の弟である。
  2. ^ 同じ久松松平氏の松平定政三男で旗本の松平定澄養子。長男は糸魚川藩主家に養子入りした松平直好

参考文献

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