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増山正贇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
増山正贇
時代 江戸時代中期
生誕 享保11年12月26日1727年1月17日
死没 安永5年4月5日1776年5月22日
改名 仙五郎(幼名)→匡幸→正順→正孝→正贇
戒名 相厳院殿深達覚道大居士
墓所 東京都台東区上野の勧善院
官位 従五位下、対馬
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
伊勢長島藩
氏族 毛利氏増山氏
父母 父:毛利匡広、母:性春院
養父:増山正武
兄弟 慧照院(増山正武正室)、毛利師就毛利政苗毛利匡敬正贇
正室:美代姫法輪院細川利恭の娘)
側室:朝倉氏(湯樹院)
正賢正邦(次男)、白須政雍(四男)、小出英俊正聴松平定慮松平定諡(八男)、千勢(高木貞威室)、菊(戸田氏紹正室のち酒井忠敬室)、定(増山正備正室)、富(佐藤信顕正室)、季支(白須政雍養女、都築安富室)
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増山 正贇(ましやま まさよし)は、江戸時代中期の大名伊勢長島藩の第4代藩主。長島藩増山家5代。

生涯

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享保11年(1726年)12月26日、長門長府藩主・毛利匡広の十一男として生まれる。幼名は仙五郎、千五郎。延享元年(1744年)3月11日、第3代藩主・増山正武の養子となる。正武の正室・慧照院は正贇の姉であった。また、自身の養子縁組以前に正武の養女(実父は本多忠辰)と婚約していたが、その養女は結婚前に死去している。延享3年(1746年)9月1日、将軍徳川家重御目見する。同年12月18日、従五位下・対馬守に叙任する。延享4年(1747年)8月5日、養父の死去により跡を継いだ。明和2年(1768年)10月28日、奏者番に就任する。安永5年(1776年)1月29日、辞職する。

宝暦4年(1754年)から木曽川伊尾川一帯の治水工事(宝暦治水)を行なう。しかし天災、大火事などが相次ぎ、あまり効果はなかった。また、多くの文化人を招聘して、文学の発展に尽力した。安永5年(1776年)4月5日に死去した。享年51。跡を長男の正賢が継いだ。

系譜

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父母

正室

側室

  • 朝倉氏(湯樹院)

子女