菅沼定仍
表示
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 天正4年(1576年) |
死没 | 慶長10年10月25日(1605年12月5日) |
別名 | 新八郎(通称) |
戒名 | 慧性院殿雄庵良英大居士 |
墓所 | 京都府亀岡市西堅町の宗堅寺 |
官位 | 従五位下、志摩守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
藩 | 上野阿保藩主→伊勢長島藩主 |
氏族 | 菅沼氏 |
父母 | 父:菅沼定盈、母:普厳院(松平家次の娘) |
兄弟 | 定仍、定成、定芳、定武、田中吉官 |
妻 | 正室:流光院(松平康元の娘) |
子 | 養子:定芳 |
菅沼 定仍(すがぬま さだより)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。上野阿保藩主、伊勢長島藩の初代藩主。
生涯
[編集]天正4年(1576年)、菅沼定盈の次男として三河野田で生まれる。父の隠居で家督を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは駿河興国寺城や駿府城、美濃岐阜城の守備を担当し、その功績により慶長6年(1601年)6月、1万石加増の2万石で伊勢長島藩主として移封された。
しかし生来から病弱の上、父や正室に先立たれるという不幸も追い討ちをかけた。このために重病に倒れて療養していた最中の慶長10年(1605年)10月25日、京都で死去した。享年30。継嗣が無かったため、弟の定芳が養子として跡を継いだ。