板倉重治
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板倉重治像 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄10年(1697年) |
死没 | 享保9年3月25日(1724年4月18日) |
改名 | 新十郎(幼名)[1]→重治 |
戒名 | 鉄心院殿悟雲源旨大居士 |
墓所 | 愛知県西尾市貝吹町入の長円寺 |
官位 | 従五位下、近江守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家宣→家継→吉宗 |
藩 |
伊勢亀山藩主→志摩鳥羽藩主→ 伊勢亀山藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 | 父:板倉重冬、母:松浦鎮信の娘 |
兄弟 | 次郎三郎兵部、娘(戸田忠余正室) |
妻 | 側室:村井氏 |
子 |
勝澄 養女:板倉勝清の娘(太田資俊正室) |
板倉 重治(いたくら しげはる)は、江戸時代中期の大名。伊勢亀山藩主、のち志摩鳥羽藩主を経て、再び亀山藩主として再封された。板倉家宗家6代。
生涯
[編集]元禄10年(1697年)、亀山藩主板倉重冬の長男として生まれる。宝永6年(1709年)に父が死去したため、家督を継いだ。宝永7年(1710年)1月26日に志摩鳥羽に移封される。正徳元年(1711年)6月に従五位下・近江守に叙位・任官する。
享保2年(1717年)11月、再び亀山藩に戻される。しかし相次ぐ移封で、藩財政が苦しくなったといわれている。享保9年(1724年)3月25日に死去した。享年28。跡を長男の勝澄が継いだ。
脚注
[編集]- ^ 一統武鑑(宝永七年)によれば 新重郎
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