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板倉重治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
板倉重治
板倉重治像
時代 江戸時代中期
生誕 元禄10年(1697年
死没 享保9年3月25日1724年4月18日
改名 新十郎(幼名)[1]→重治
戒名 鉄心院殿悟雲源旨大居士
墓所 愛知県西尾市貝吹町入の長円寺
官位 従五位下、近江
幕府 江戸幕府
主君 徳川家宣家継吉宗
伊勢亀山藩主→志摩鳥羽藩主→
伊勢亀山藩主
氏族 板倉氏
父母 父:板倉重冬、母:松浦鎮信の娘
兄弟 次郎三郎兵部、娘(戸田忠余正室)
側室:村井氏
勝澄
養女:板倉勝清の娘太田資俊正室)
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板倉 重治(いたくら しげはる)は、江戸時代中期の大名伊勢亀山藩主、のち志摩鳥羽藩主を経て、再び亀山藩主として再封された。板倉家宗家6代。

生涯

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元禄10年(1697年)、亀山藩主板倉重冬の長男として生まれる。宝永6年(1709年)に父が死去したため、家督を継いだ。宝永7年(1710年)1月26日に志摩鳥羽に移封される。正徳元年(1711年)6月に従五位下・近江守に叙位・任官する。

板倉重治の墓(西尾市長圓寺)

享保2年(1717年)11月、再び亀山藩に戻される。しかし相次ぐ移封で、藩財政が苦しくなったといわれている。享保9年(1724年)3月25日に死去した。享年28。跡を長男の勝澄が継いだ。

脚注

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  1. ^ 一統武鑑(宝永七年)によれば 新重郎
先代
板倉重冬
板倉宗家当主
1709年 - 1724年
次代
板倉勝澄