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板花義一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
板花 義一
生誕 1889年1月29日
大日本帝国の旗 大日本帝国 長野県
死没 (1961-10-18) 1961年10月18日(72歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1911 - 1945
最終階級 陸軍中将
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板花 義一(いたはな ぎいち、1889年明治22年)1月29日[1][注 1] - 1961年昭和36年)10月18日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市[3]に農業・板花茂一郎の二男として生まれる[1]1907年(明治40年)松本中学卒業、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[1][2][4]。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第2大隊付となる[1][4]1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した[1][2][5]

1924年(大正13年)3月、輜重兵第1大隊付となり、同年7月から12月まで下志津陸軍飛行学校偵察を学んだ[1]1925年(大正14年)1月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、輜重兵監部員を歴任し、1926年(大正15年)8月、輜重兵少佐に昇進[1]1927年(昭和2年)12月、陸大教官となり、第3師団参謀仰付を経て、1930年(昭和5年)8月、輜重兵中佐に進級[1]1932年(昭和7年)2月、上海派遣軍参謀仰付となり、参謀本部員、欧州出張、陸軍自動車学校教官を経て関東軍自動車隊長に就任し、1935年(昭和10年)3月、輜重兵大佐に昇進[1][5]

1936年(昭和11年)8月、輜重兵監部員に転じ、第1軍兵站参謀長、同軍参謀を経て、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し下志津飛行学校付となる[1][2][5]1938年(昭和13年)11月、熊谷陸軍飛行学校幹事に就任し、第7飛行団長を経て明野陸軍飛行学校長となり、1941年(昭和16年)3月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた[1][2][5]

1942年(昭和17年)11月、新設の第6飛行師団長として出征[1][2][5]ラバウルに赴任し東部ニューギニア方面での航空戦を指揮[2]1944年(昭和19年)4月、陸軍航空本部付に転じ、陸軍航空通信学校長を経て、1944年8月、第2航空軍司令官に発令され満州に赴任[1][2][5]1945年(昭和20年)6月、予備役編入となった[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

その後は横浜市で余生を送った[3]

栄典

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』80頁では1月24日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、21頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』80頁。
  3. ^ a b 赤羽ほか 1989, 57頁.
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』289、291頁。
  5. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』291頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 赤羽篤ほか 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。ISBN 4876631263