林元善
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄元年(1558年) |
死没 | 慶長14年12月6日(1609年12月31日) |
別名 |
林元喜 通称:与次 |
官位 | 従五位下、志摩守、木工允 |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 藤原北家隆家流 菊池氏庶流林氏 |
父母 | 父:林就長 |
兄弟 | 元善、女(入江元親室) |
妻 | 児玉元貫の娘 |
子 | 元直、元由、元之、女(小幡就里室) |
林 元善(はやし もとよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏家臣で長州藩士。牛の皮城主。父は林就長。
生涯
[編集]永禄元年(1558年)、毛利氏家臣である林就長の子として生まれ、元亀3年(1572年)に石見国邇摩郡の金剛山安楽寺の諸堂と七坊を再興する。
天正6年(1578年)6月21日、播磨国上月城の戦いにて功を立て、6月28日に毛利輝元より感状を得る。
豊臣政権下においては、父・就長と共に毛利家と豊臣家の渉外を任されており、天正16年(1588年)7月、豊臣秀吉によって父・就長が従五位下・肥前守に任じられるのと同時に、元善も従五位下・志摩守に叙任された。
文禄3年(1594年)9月3日、毛利輝元より備後・安芸・周防の3ヶ国で合計2290石の所領[1]を安堵される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に毛利氏が防長2ヶ国に減封されると、元善も周防国へ移って毛利秀就に仕え、慶長14年(1609年)12月6日に52歳で死去。12月16日に嫡男の元直が家督と知行[2]を継ぎ、次男の元由には200石の地が分知された。また同日には、三男の元之にかつて林就長が知行していた120石が与えられた。子孫は萩藩大組として残る。