柳沢安吉
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 文禄4年(1595年) |
死没 | 貞享3年閏3月6日(1686年4月28日) |
別名 | 信文、孫左衛門(通称) |
戒名 | 桃林院殿沢翁孫柳居士 |
墓所 | 東京都新宿区市谷河田町の正覚山月桂寺 |
幕府 | 江戸幕府 富士見宝蔵番、三丸番、西丸広敷番頭、本丸広敷番頭 |
主君 | 徳川秀忠、忠長、家綱 |
氏族 | 柳沢氏 |
父母 | 柳沢信俊、石原昌明娘 |
兄弟 | 横手源七郎、曽根孫右衛門、米倉永時室、高屋吉久室、安吉、安忠 |
妻 | 窪嶋孫兵衛娘 |
子 | 信安、吉次、安冶、信花ら |
柳沢 安吉(やなぎさわ やすよし)は、江戸時代前期の旗本。通称は信文、のち孫左衛門。柳沢信俊の三男。母は石原昌明の娘。
安吉の致仕後、長男の信安が既に没していたため、孫の時憲が家督を継いだ。
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の元で側用人として活躍した柳沢吉保は、弟・安忠の子である。
年表
[編集]※日付は旧暦
- 慶長18年(1613年) - 将軍徳川秀忠に初御目見え。160石を与えられる
- 慶長19年(1614年) - 大坂冬の陣に供奉。その最中に父・信俊が病死したため帰還後、家督相続(230石)。先に得た160石は弟安忠に与える
- 元和8年(1622年) - 徳川忠長に仕える。忠長改易の後は浪人となる
- 寛永17年(1640年) - 幕府に再出仕を命じられ、富士見宝蔵番となる
- 寛永18年(1641年)11月15日 - 知行地を下総国匝瑳郡に移される
- 寛永20年(1643年)8月31日 - 竹千代(のちの将軍徳川家綱)付きとなり、三丸番を務める
- 寛永20年(1643年)12月18日 - 知行230石を蔵米230俵に改められる
- 慶安3年(1650年)8月23日 - 西丸広敷番頭となる。のち本丸に異動
- 万治2年(1659年)12月24日 - 200俵加増される(都合430俵)
- 寛文6年(1666年)3月24日 - 高齢のため辞職。寄合となる
- 貞享2年(1685年)7月11日 - 致仕。同日、孫の時憲が家督を継ぐ
- 貞享3年(1686年)閏3月6日 - 死去。享年92。月桂寺に葬られる。法名、桃林院殿沢翁孫柳居士