柴崎鉄吉
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柴崎 鉄吉(しばさき てつきち、慶応2年3月(1866年)[1] - 没年不詳)は、日本の教育者。
経歴
[編集]士族として岐阜県大垣市に生まれる[2]。明治21年(1888年)4月中等教員免許状を得て、直ちに岐阜県第一中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)の教諭に任ぜられる。次いで岐阜県尋常師範学校(現・岐阜大学教育学部)の教諭に転じ、明治24年(1891年)3月附属小学校の主幹、明治25年(1892年)4月主事となり、後に舎監を兼ねる。明治29年(1896年)8月再び岐阜県第一中学校教諭に復し、大垣分校(現・岐阜県立大垣北高等学校)校長に任命される[1]。
明治32年(1899年)6月佐賀県に転任し県視学官となる。その後、鳥取県視学官、山形県中学校(現・山形県立山形東高等学校)校長、京都府師範学校(現・京都教育大学)校長、大阪府天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)校長を経て、明治44年(1911年)9月福岡県立中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)館長(校長)に就任する[1][3]。
大正2年(1913年)2月福岡県立中学修猷館館長を退任し[3]、朝鮮総督府京城中学校(現・ソウル高等学校)校長に就任[4]。同校長の退任を最後に教育界を辞して郷里に戻っている。全国を通じての名校長として評判が高かった[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c 日本名家肖像事典 1990.
- ^ a b 難波専太郎 1942.
- ^ a b 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』修猷館同窓会、2020年、歴代総受持・館長15頁。
- ^ 修猷館二百年史 1985.
参考文献
[編集]- 『日本名家肖像事典 第12巻』ゆまに書房、1990年、215頁。ISBN 978-4-89668-276-2。
- 難波専太郎『朝鮮風土記 上巻』建設社、1942年、270-275頁。
- 修猷館二百年史編集委員会編『修猷館二百年史』修猷館二〇〇年記念事業委員会、1985年、165頁。
公職 | ||
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先代 隈本有尚 朝鮮総督府中学校長 |
京城中学校長 1913年 - 1924年 朝鮮総督府中学校長 1913年 |
次代 加藤常次郎 |
先代 西村謙三 |
福岡県立中学修猷館長 1911年 - 1913年 |
次代 小松倍一 |
先代 赤木通弘 |
大阪府立天王寺中学校長 1906年 - 1911年 |
次代 鈴木券太郎 |
先代 清水誠吾 |
京都府師範学校長 1902年 - 1906年 |
次代 鈴木光愛 |
先代 加藤忠治 山形県山形中学校長 |
山形県立山形中学校長 1901年 - 1902年 山形県山形中学校長 1900年 - 1901年 |
次代 河合弘民 |
先代 埴原惟忠 岐阜県尋常中学校大垣分校長 |
岐阜県大垣中学校長 1899年 岐阜県大垣尋常中学校長 1896年 - 1899年 岐阜県尋常中学校大垣分校長事務取扱 1896年 |
次代 吉村勝治 |