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柴崎鉄吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柴崎 鉄吉(しばさき てつきち、慶応2年3月(1866年[1] - 没年不詳)は、日本の教育者

経歴

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士族として岐阜県大垣市に生まれる[2]明治21年(1888年)4月中等教員免許状を得て、直ちに岐阜県第一中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)の教諭に任ぜられる。次いで岐阜県尋常師範学校(現・岐阜大学教育学部)の教諭に転じ、明治24年(1891年)3月附属小学校の主幹、明治25年(1892年)4月主事となり、後に舎監を兼ねる。明治29年(1896年)8月再び岐阜県第一中学校教諭に復し、大垣分校(現・岐阜県立大垣北高等学校)校長に任命される[1]

明治32年(1899年)6月佐賀県に転任し県視学官となる。その後、鳥取県視学官、山形県中学校(現・山形県立山形東高等学校)校長、京都府師範学校(現・京都教育大学)校長、大阪府天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)校長を経て、明治44年(1911年)9月福岡県立中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)館長(校長)に就任する[1][3]

大正2年(1913年)2月福岡県立中学修猷館館長を退任し[3]朝鮮総督府京城中学校(現・ソウル高等学校)校長に就任[4]。同校長の退任を最後に教育界を辞して郷里に戻っている。全国を通じての名校長として評判が高かった[2]

脚注

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  1. ^ a b c 日本名家肖像事典 1990.
  2. ^ a b 難波専太郎 1942.
  3. ^ a b 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』修猷館同窓会、2020年、歴代総受持・館長15頁。 
  4. ^ 修猷館二百年史 1985.

参考文献

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  • 『日本名家肖像事典 第12巻』ゆまに書房、1990年、215頁。ISBN 978-4-89668-276-2 
  • 難波専太郎『朝鮮風土記 上巻』建設社、1942年、270-275頁。 
  • 修猷館二百年史編集委員会編『修猷館二百年史』修猷館二〇〇年記念事業委員会、1985年、165頁。 
公職
先代
隈本有尚
朝鮮総督府中学校長
日本の旗 京城中学校
1913年 - 1924年
朝鮮総督府中学校長
1913年
次代
加藤常次郎
先代
西村謙三
福岡県立中学修猷館長
1911年 - 1913年
次代
小松倍一
先代
赤木通弘
大阪府立天王寺中学校
1906年 - 1911年
次代
鈴木券太郎
先代
清水誠吾
京都府師範学校長
1902年 - 1906年
次代
鈴木光愛
先代
加藤忠治
山形県山形中学校長
山形県立山形中学校
1901年 - 1902年
山形県山形中学校長
1900年 - 1901年
次代
河合弘民
先代
埴原惟忠
岐阜県尋常中学校大垣分校長
岐阜県大垣中学校
1899年
岐阜県大垣尋常中学校長
1896年 - 1899年
岐阜県尋常中学校大垣分校長事務取扱
1896年
次代
吉村勝治