桂藤兵衛
桂 藤兵衛(かつら とうべえ)は、落語の名跡。元は上方落語の名跡。当代は三代目を名乗り、東京の落語家。
月亭春松編の『落語系圖』には、京都落語界の大立者であった元川傳吉の桂藤兵衛を二代目としている。当代が三代目を名乗っている根拠は、これによると思われる。しかし、墓石や他の資料、当時の新聞等には、元川傳吉の桂藤兵衛を全て三代目としている。この項では、便宜上、元川傳吉の桂藤兵衛を上方三代目とし、当代を東京三代目とする。
上方3代目
[編集]三代目 | |
本名 | 元川 傳吉 |
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生年月日 | 1849年 |
没年月日 | 1902年5月31日 |
出身地 | 日本・大坂安治川 |
死没地 | 日本・京都府 |
師匠 | 初代桂文枝 二世曽呂利新左衛門 六代目桂文治 林家延玉 桂文左衛門 |
弟子 | 四代目桂文吾 三代目笑福亭圓笑 桂藤誠 桂藤龍 |
名跡 | 1.桂文馬 (1865年 - ?) 2.桂文車 (不詳) 3.桂文字助 (? - 1885年) 4.ミ代目桂藤兵衛 (1885年 - 1902年) |
活動期間 | 1865年 - 1902年 |
活動内容 | 音曲 |
所属 | 桂派 京桂派 藤明派 |
主な作品 | |
木遣崩し 鎌倉節 オッペケペー節 郭巨の釜堀(テケレッツのパー) | |
三代目 桂 藤兵衛(1849年 - 1902年5月31日)は、上方噺家。本名∶元川 傳吉。
経歴
[編集]大坂安治川通三丁目の米屋の子として生まれる。幼名は龜吉。
1865年の17、8歳の頃、初代桂文枝の男衆に入り、文馬を名乗り九郎右衛門町の大富席の前座に出る。数年後文車と改名。
その後、初代桂文之助門下となり文字助を名乗る。暫く後に東京へ赴き六代目桂文治の世話になったり、名古屋の林家延玉門下で修行していた時期もある。帰阪後、1882年頃から京都を根城とし1885年3月、桂文左衛門門下で三代目桂藤兵衛を襲名。以降、桂派京都の総取締を勤め京都・新京極の幾代亭に14年間もの長きに渡り出席、「桂藤兵衛藤原忠勝入道
1897年頃に何か不都合あって文左衛門から破門され桂派から追放される。1898年夏、同じ新京極の笑福亭に移籍。1900年正月、大阪に出、盲人音曲師の西國坊明學と組んで「藤兵衛」の「藤」と「明學」の「明」に因んで「藤明派」を立ち上げ、桂派・三友派と張り合うが、翌年秋ごろ、心臓の病で体調を崩して京都へ戻り、間もなく肝臓の病を併発し六角富小路下ルの自宅で病没。享年54(53とも)。
活動
[編集]「顋無齋」の名乗りの通り、顎が短く、眉太、色黒で、木魚に目鼻を付けたような顔で、丸々とよく肥えた愛嬌たっぷりの人気者であった。
木遣崩し、鎌倉節、オッペケペー節、郭巨の釜堀(テケレッツのパー)などをはやらせ、『三十石』の舟唄を得意としたという。
弟子
[編集]江戸3代目
[編集]三代目 | |
中陰光琳蔦(画像は中陰蔦)は、林家彦六一門の定紋である。 | |
本名 | |
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生年月日 | 1952年1月13日(72歳) |
出身地 | 日本・東京都文京区 |
師匠 | 林家彦六 二代目橘家文蔵 |
名跡 | 1. 林家上蔵 (1969年 - 1984年) 2. 三代目桂藤兵衛 (1984年 - ) |
出囃子 | 青すだれ |
活動期間 | 1969年 - |
所属 | 落語協会 |
受賞歴 | |
国立演芸場 花形若手演芸会新人賞 金賞(1981年・1986年) | |
三代目 桂 藤兵衛(1952年1月13日 - )は、東京都文京区出身の落語家。本名∶上 弘明。落語協会所属。出囃子は『青すだれ』。
経歴
[編集]1969年6月に八代目林家正蔵に入門、8番弟子となる。前座名は本名にちなみ「林家上蔵」。この「上蔵」の名前はかつて四代目林屋正蔵が名乗っていたことがある。
1974年11月に二ツ目昇進。1981年12月に国立演芸場花形若手演芸会新人賞金賞を「そば清」で受賞。1982年1月、師匠彦六死去。師匠彦六没後は弟弟子林家正雀と共に兄弟子二代目橘家文蔵一門に移籍。1983年4月に弟弟子正雀が先に真打昇進となる。
1984年9月に林家種平、古今亭八朝と共に真打昇進。三代目桂藤兵衛襲名。1986年3月、国立演芸場 花形若手演芸会新人賞金賞を「竹の水仙」で受賞。
芸歴
[編集]人物
[編集]柳家さん遊、四代目入船亭扇蔵と共に定期的な落語会を開いている。
受賞歴
[編集]演目
[編集]外部リンク
[編集]出典
[編集]- 『落語系圖』(月亭春松編)
- 『古今東西落語家事典』(諸芸懇話会・大阪芸能懇話会共編、平凡社、1989年、ISBN 458212612X)