コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

桑田佳祐のオールナイトニッポン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オールナイトニッポン > 桑田佳祐のオールナイトニッポン
桑田佳祐のオールナイトニッポン
ジャンル トーク番組
放送方式 生放送
放送期間 1979年4月5日 - 1980年6月27日(木曜1部)
1984年1月24日 - 1985年10月8日(火曜1部)
放送時間 木曜 25:00~27:00(木曜1部)
火曜 25:00~27:00(火曜1部)
放送局 ニッポン放送
パーソナリティ 桑田佳祐
テンプレートを表示

桑田佳祐のオールナイトニッポン(くわたけいすけのオールナイトニッポン)は、ニッポン放送でかつて放送していたオールナイトニッポンの番組。パーソナリティーは、桑田佳祐

概要・エピソード

[編集]

木曜1部時代

[編集]

当時はすぐ後の2部が明石家さんま1979年10月から)だったこともあって、さんまを本番組に出演させるなどして、アミダばばあ(『オレたちひょうきん族』のキャラクター)のテーマ曲『アミダばばあの唄』の作詞・作曲・プロデュースを桑田が手掛けるなど後々の親交につながっていった[1]

この当時(1979年秋)に山下達郎がゲスト出演し桑田と初めて共演。これがきっかけで交流が始まり[2]、後に原由子竹内まりやを交えた家族ぐるみの付き合いに発展している[3]

同じサザンオールスターズのメンバーが毎週のようにゲストに入っていた[4]

桑田が尊敬するジョン・レノン長野県軽井沢町に滞在しているという情報をリスナーから得たことから、実際にこの番組を通じて会いに行こうとしたこともあった[5]

1980年5月には、当時発表したアルバム『TOUCH』のプロモーションを兼ねて松田優作がゲスト出演した[注 1]。2021年の桑田の著書にはこの際のエピソードが掲載されている[6]

1980年6月に一度本番組が終了。その木曜1部での最終回はサザンオールスターズの他のメンバーも集まってスタジオライブを行い、当時直後の2部のパーソナリティのさんまもセッションに加わり『いとしのエリー』を一緒に歌った[1]。その後は同じサザンオールスターズの関口和之との番組『桑田君と関口クン』(1981年1月 - 1981年9月 月曜日 - 金曜日24:00 - 24:10)、『桑田佳祐のゼロックス・ポッピン・ポップス』(1980年10月 - 1981年3月 水曜日 20:00 - 21:00)、『桑田佳祐と○○○○のなんでもスルー・ザ・ナイト』(1981年10月 - 1982年3月 水曜日 20:00 - 21:00)、『桑田佳祐のミスターポップス!』(1982年4月 - 1983年9月)と同じくニッポン放送でレギュラーパーソナリティを務め続けた後、1984年1月に約3年6か月ぶりに火曜1部でオールナイトニッポンに復帰する。

火曜1部時代

[編集]

火曜1部で復帰後は、サザンオールスターズも全国ツアーのスケジュールなどが多く入るようになったことで、2回に1回の割合と言われるほど地方局からの生放送が増えた。そしてその地方の名物をリスナーにプレゼントする企画も多くなった[7]

青山学院大学の後輩で後にサザン及び桑田のサポートメンバーになる斎藤誠が度々ゲスト出演し、カーリー・サイモンうつろな愛」やニコレット・ラーソン溢れる愛」などの双方が気に入った洋楽を桑田とデュエットした[8]

1985年2月27日には特別企画「バースデイスペシャルライブ ~時間を止めてしまいたい 男・桑田佳祐23+6歳~」を、リスナーの中から招待された観客を入れて生放送で開催。桑田佳祐関口和之松田弘野沢秀行サザンオールスターズのメンバーのほか、矢口博康、今野多久郎、河内淳一が番組中で『センズリッターズ』を組んで演奏を担当、ゲストにはタモリ(紺のスカートに赤い靴という格好で登場。『Georgia On My Mind』をセッション)、山下久美子(『砂に消えた涙』『You are the sunshine of my life』を歌唱)、小林克也(『You May Be Right』『Don't Be Cruel』を歌唱)、石橋凌(『Stand By Me』『You've Got To Hide Your Love Way』を歌唱)を迎えた他、桑田が大ファンの藤波辰巳バースデーケーキを持って駆けつけ、番組中で明石家さんまからのメッセージも紹介された。この他鮎川誠が『A Hard Days Night』『When A Man Loves A Woman』に、BOWWOW山本恭司が『Smoke On The Water』の各曲の演奏にそれぞれ参加、そしてこの日の本番組は「お休み」と決め込んでいた原由子も結局出演した。 そしてこのライブは午前3時が過ぎても終わらなかったため、当日の白井貴子のオールナイトニッポンにも延長する形でこの企画の生放送が行われ、白井貴子も桑田と共演する形で出演した[9]

放送時間

[編集]
  • レギュラー放送時代
    • 1979年4月5日~1980年6月27日 木曜1部 木曜25:00~27:00
    • 1984年1月24日~1985年10月8日 火曜1部 火曜25:00~27:00
  • スペシャル放送
    • 2004年7月15日 25:00~27:00
    • 2008年3月11日 25:00~27:00(サブタイトルは「有楽町で逢いましょう」)

レギュラー放送時にあったコーナー

[編集]
金太負けるな
木曜1部時代。当時、裏番組にツイストふとがね金太がパーソナリティの『セイ!ヤング』(文化放送)があり、これを意識して設けられたコーナー。ハガキの内容も茶化しや揶揄が主だった。コーナータイトルはつボイノリオの曲『金太の大冒険』の歌詞の一節から[5]
ありそうでないものコーナー
木曜1部時代。コーナー名通り「ありそうでないもの」や「できそうでできないこと」などのネタを募集[4]
マナのドスこい
歌手のマナ原由子と一緒に、女性同士ならではの、少々お色気寄りのトークをするコーナー[4]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 当時松田はサザンと同じビクターに所属しており、両者とも高垣健がディレクターを担当していた[6]

出典

[編集]
  1. ^ a b 日本懐かしラジオ大全(辰巳出版、2021年11月5日初版発行)p.50
  2. ^ サザンオールスターズ会報 代官山通信vol.137 14ページより。
  3. ^ 山下達郎・竹内まりやと桑田佳祐・原由子夫妻 35年交流続くNEWSポストセブン 2014年1月6日配信 2020年12月11日閲覧
  4. ^ a b c 明星集英社)1979年7月号 p.160 - 161「ラジオDJ広場」
  5. ^ a b 月刊ラジオパラダイス 1987年4月号「深夜放送20周年ぐらふぃてぃ - 1967~1986深夜放送大年表」より。
  6. ^ a b 桑田佳祐『ポップス歌手の耐えられない軽さ』文藝春秋、2021年。 94 - 101頁。
  7. ^ 明星集英社)1984年4月号『おかひろみのRADIO WAVE』p.170
  8. ^ サザンの片腕・斎藤誠のライブアルバムは音楽サークル経験者の憧れ!Re:minder 2022年1月31日閲覧
  9. ^ 週刊明星 1985年3月21日号 p.11 - 13
オールナイトニッポン木曜1部
前担当
桑田佳祐のオールナイトニッポン
木曜 25:00 - 27:00
次担当
オールナイトニッポン火曜1部
前担当
桑田佳祐のオールナイトニッポン
火曜 25:00 - 27:00
次担当