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ヤナセ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梁瀬商事から転送)
株式会社ヤナセ
YANASE AND COMPANY, LIMITED
本社(2022年)
種類 株式会社
機関設計 監査役会設置会社
本社所在地 日本の旗 日本
105-8575
東京都港区芝浦一丁目6番38号
北緯35度38分48.8秒 東経139度45分17.4秒 / 北緯35.646889度 東経139.754833度 / 35.646889; 139.754833座標: 北緯35度38分48.8秒 東経139度45分17.4秒 / 北緯35.646889度 東経139.754833度 / 35.646889; 139.754833
設立 1920年大正9年)1月27日
(梁瀬自動車株式会社)
業種 卸売業
法人番号 1010401029826 ウィキデータを編集
事業内容 自動車ディーラー
代表者 森田考則(代表取締役社長執行役員
資本金
  • 69億7500万円
(2023年3月31日現在)[1]
発行済株式総数
  • 4726万株
(2023年3月31日現在)[1]
売上高
  • 連結: 4618億0100万円
  • 単独: 3856億8100万円
(2023年3月期)[1]
営業利益
  • 連結: 222億7800万円
  • 単独: 160億0700万円
(2023年3月期)[1]
経常利益
  • 連結: 237億7300万円
  • 単独: 206億0200万円
(2023年3月期)[1]
純利益
  • 連結: 166億9100万円
  • 単独: 151億5800万円
(2023年3月期)[1]
純資産
  • 連結: 731億4200万円
  • 単独: 662億8800万円
(2023年3月31日現在)[1]
総資産
  • 連結: 2185億9800万円
  • 単独: 2056億9400万円
(2023年3月31日現在)[1]
従業員数
  • 連結: 4,614人
  • 単独: 3,565人
(2023年3月31日現在)[1]
決算期 3月31日
会計監査人 EY新日本有限責任監査法人[1]
主要株主
  • 伊藤忠商事 82.75%
  • ESS事業団 8.59%
  • 鹿島建設 1.18%
  • 鹿島公子 0.70%
  • 宮園オート 0.27%
  • 鶴田節子 0.26%
  • 伊丹産業 0.26%
  • 梁瀬泰孝 0.18%
  • 岡崎ヤナセプランニング 0.18%
  • 豊橋ヤナセ 0.18%
  • (2023年3月31日現在)[1]
関係する人物
外部リンク https://www.yanase.co.jp/
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株式会社ヤナセ: YANASE AND COMPANY, LIMITED[2])は、伊藤忠商事傘下の輸入車および中古車販売業者(ディーラー)。取扱車の後部ウィンドウに貼られる、黄地に青字の「YANASE」ステッカーで知られる。2023年現在のキャッチフレーズは「クルマはつくらない。クルマのある人生をつくっている。」。

概要

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日本国内に新車販売店174店舗と、中古車販売店31店舗を持つ。直営の販売店に加え、特定の輸入車ブランドを扱う子会社組織や、一部の地方における関連会社[注釈 1]がある[注釈 2]

かつては、「いいものだけを世界から」というキャッチフレーズを前面に出し、テレビ・ラジオの番組提供などでCMも放映され、欧米自動車ブランドの輸入者(インポーター)でもあったが、2002年(平成14年)までにはそれら全ての輸入権をメーカー系インポーターに譲渡した(後述)。近年中古車販売の比率が上昇しており、現在の販売台数のおおむね45%は中古車である[3]

主に研磨剤を中心に扱う柳瀬株式会社とは一切無関係。(同社のHPには混同を避けるため「ケンマのヤナセ」と記載されている)また大阪市城東区にある潤滑油メーカーのヤナセ製油とも関係はない。

歴史

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設立

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梁瀬長太郎1915年(大正4年)5月25日、東京・日比谷に設立した梁瀬商会を前身とする。はじめはトラックバスコーチビルダー(車体製造業者)として事業開始したが、三井物産の輸入車部門を長太郎がMBOした。

経営多角化

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1919年(大正8年)、現本社のある東京府芝浦に工場を開設[4]GM(ゼネラルモーターズ)のビュイックキャデラックの輸入から始まり、イタリアフィアットや電気自動車のミルバーンなどの輸入やバス[注釈 3]、タクシー会社[注釈 4]経営、車体製造など幅広い分野に手を広げた。

1920年(大正9年)1月27日、梁瀬自動車株式会社を設立して会社組織化。また1923年には、ヨーロッパに出張中[誰が?]関東大震災の発生を聞き、復興のために自動車需要が増加することを予想し即座に2,000台のシボレーなどの輸入を決め、その後大きく販売数を伸ばした。

その後日本でもシボレーフォードなどの一般及び業務向け乗用車の現地生産が始まり、また1920年代後半から日産自動車オオタなどが小型乗用車の生産を始めると、上流階級や富裕層が好むビュイックやキャデラックの販売を強化し、第二次世界大戦後も同様の高級路線を取ることにつながった。

外国車インポーター時代

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1941年(昭和16年)11月14日、梁瀬自動車工業株式会社に社名変更。第二次世界大戦中は一時自動車輸入事業を停止していたが、1945年(昭和20年)11月29日、社名を梁瀬自動車株式会社に復帰。半年前の同年5月には梁瀬次郎が二代目社長に就任している。その後GMの各ブランドメルセデス・ベンツフォルクスワーゲン(傘下のアウディも含む)と取り扱い車種を増やした。

1963年(昭和38年)2月1日、株式会社梁瀬に社名変更。1965年(昭和40年)、日本への自動車輸入が完全自由化された後も、本国に比べて高価な価格設定、上位グレード中心の車種設定、髙島屋などの高級デパートへの出店、避暑地である軽井沢に夏の期間のみアフターサービス拠点を開くなど、国産車の購入者に比べ裕福な層に対象を絞り「高級車」イメージを強調するブランド戦略により、第二次世界大戦前のままに日本における輸入自動車を「特別な存在」、「富裕層の象徴」に位置付けた[注釈 5]

1969年(昭和44年)12月1日、株式会社ヤナセに社名変更。日本車ディーラーなみの全国に広がるネットワークと、顧客に対するきめ細かいサービスのノウハウなどは高い評価を受け、日本最大手の自動車輸入事業者(インポーター)となり、「輸入車=ヤナセ」と言われるほどの存在になった(実際の輸入業務はヤナセの100%子会社であるウエスタン自動車[注釈 6]が行い、販売をヤナセが行うという形態をとっていた)。

なお、1980年代から1990年代にかけては、GMと提携していたいすゞ自動車の複数の車種や、日産自動車が国内で生産していたフォルクスワーゲン・サンタナを扱っていたこともある。

梁瀬次郎はゼネラルモーターズの各ブランドなどのアメリカ車の日本国内での普及に貢献したとされ、2004年(平成16年)に日本人で3人目の自動車殿堂入りをしている。

再度の経営多角化

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梁瀬次郎の掛け声の下で総合商社への進展を図り、自動車の輸入販売ばかりではなく、クルーザー(ハトラス他)、アラジンストーブノースアメリカンベアの輸入、アパレル事業(シャルベ、モラビト他)、宝飾品(フレッド他)の展開、胡蝶蘭の生産、アルファレコードへの資本参加などの経営多角化を行ったが、1990年代初頭のバブル景気崩壊と、フォルクスワーゲンの輸入権喪失による経営再建の過程でほとんどの部門から撤退した。

しかしその後も1952年(昭和27年)設立のテレビコマーシャル制作会社ティー・シー・ジェー1969年までの社名は「日本テレビジョン株式会社」[5])は継続して保有(97%出資)している。

輸入権の譲渡から現在

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1990年代以降、欧米自動車会社各社が自ら設立した日本法人で輸入事業務を行うことが一般化した。販売政策を巡る意見の相違もあり、1992年(平成4年)にはフォルクスワーゲンアウディの輸入権を、2000年(平成12年)以降にはGM系ブランドの輸入権を、それぞれのメーカーが設立した日本法人に譲渡した。

キャデラックとサーブの輸入権を譲渡した2002年(平成14年)末の時点で、自動車輸入事業からは事実上撤退した。その後乗用車以外で唯一残っていたウニモグの輸入権も2005年(平成17年)11月に返上したことで自動車輸入事業からは完全撤退し、メルセデス・ベンツを始め、BMWボルボを含む多ブランドの新車・中古車を扱う輸入車ディーラーとなっている。

輸入車分野における新車販売の競争が激化する中、中古車販売店「ブランドスクエア」に注力している。2018年4月には、往年の名車のレストアサービスを行う「ヤナセクラシックカーセンター」を横浜市都筑区に開店している。またスキー場向けのピステンブーリー(特殊無限軌道車両)や、ファッション商品の輸入事業は継続している。

創業以来梁瀬一族による同族経営であったが、2003年(平成15年)以降は伊藤忠商事傘下での経営再建を行っている。2017年(平成29年)5月には、海外事業の展開を図ることを目的とし伊藤忠商事による株式公開買付けを実施。現在は同社の連結子会社となっている。

芝浦本社の再開発

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旧本社社屋(2011年)

2011年(平成23年)、本館が1962年(昭和37年)、新館が1970年(昭和45年)の竣工であり老朽化していた本社社屋の解体・再開発が着手され[4]2012年(平成24年)10月31日に鴻池組が施工した地上6階、高さ29.25m、延床面積23,975.63㎡(旧本社社屋の約1.6倍の延床面積)の新本社社屋が竣工し、同年12月1日より営業をスタートした。再開発は伊藤忠商事、日本土地建物などとの共同で行われ、新本社社屋のほか、34階建て、総戸数882戸の超高層マンションであるグローバルフロントタワーが建設された[4]

ヤナセ クラシックカーセンター

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2018年(平成30年)4月5日、横浜市都筑区にヤナセクラシックカーセンターをオープン。各支店やBPセンターで、口コミベースで行ってきたレストア業務を事業化。

ヤナセ プレミアムカーレンタル

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2016年(平成28年)4月、ニッポンレンタカーと提携し、当社が取り扱うプレミアムブランドのレンタカー事業を開始。

主な取扱ブランド(自動車)

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過去に取り扱っていたブランド

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自動車以外の過去に取り扱っていた商品

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関連項目

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  • 大里桃子(女子プロゴルファー) - 同社のオフィシャルサプライヤーを務めている[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ ヤナセ販売網に加入している、地場独立資本の地方ディーラー。
  2. ^ なお大阪市城東区関目に本社がある「ヤナセ製油」とは関係ない。
  3. ^ 京成電鉄に買収され、現在は京成タウンバスが運行。
  4. ^ 見習い運転手をしていた川鍋秋蔵が独立の後に経済統制下での企業合同を経て東京四社の一角となる日本交通を創業する。
  5. ^ ヤナセの販売戦略が原因で、本国と日本でブランドイメージの乖離が生じているメーカーが存在する。例えば、メルセデス・ベンツは日本では高級車のメーカーとして知られているが、ドイツをはじめとする欧州諸国では廉価な乗用車も発売しているほか、タクシー・商用バン・トラック・バス・特殊車両や軍用車も製造しており、総合自動車メーカーとして知られている。
  6. ^ 設立当初は西日本におけるパッカードの代理店という位置づけであり、本社も大阪・梅田に所在したが、1952年にメルセデス・ベンツの輸入権を獲得したことに伴い、ヤナセ本社と同じ東京・芝浦に移転した。また、メルセデス・ベンツ日本(MBJ)の設立当初、BMWと同じ手法(BMW本社が当時の日本における代理店だったバルコムトレーディングを買収してBMW JAPANに改組)でダイムラー・ベンツ社がウエスタン自動車を買収することも検討されていたが、諸事情により別に設立したMBJにウエスタン自動車が担当していた輸入業務を移管する形で発足している。
  7. ^ 2002年、アウディジャパンとの共同出資で「ヤナセアウディ販売」を設立し最終的には20店舗が運営されていたが、2007年7月アウディジャパンが直販体制強化のためヤナセ側の店舗と組織を買収し「アウディジャパン販売」として再スタートした。同年、子会社「ヤナセオートモーティブ」を新たに設立しアウディの販売を再開した。2008年6月23日現在直営8店舗。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 株式会社ヤナセ『第151期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)有価証券報告書』(レポート)2023年6月29日。 
  2. ^ 株式会社ヤナセ 定款 第1条
  3. ^ [1]
  4. ^ a b c 東京・芝浦の本社:ヤナセ、300億円で再開発 『日本経済新聞』 平成23年5月3日朝刊
  5. ^ 創業当初はテレビ受像機の輸入業者であった。社名が類似する日本テレビ放送網とは関係がない。
  6. ^ - 福岡県で子会社を設立、ポルシェ正規ディーラー拠点を運営 - - ヤナセ 2018年6月29日(2018年6月29日閲覧)
  7. ^ ケンメリ。その数62万台以上。セダン、ワゴン、2ドア、GT-R・・・ケンとメリーのスカイライン、多くのバリエーションを実車で追う。 | Nosweb.jp|日本の旧車Webマガジン[ノスウェブドットジェイピー]”. nosweb.jp. 2022年12月31日閲覧。
  8. ^ "ヤナセ、プロゴルファー大里 桃子 選手とオフィシャルサプライヤー契約を締結 - 国内で開催されるツアー参戦をサポート" (PDF). 社会貢献/各種活動支援. 株式会社ヤナセ. 26 February 2021. 2024年4月21日閲覧

外部リンク

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