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森山茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

森山 茂(もりやま しげる、天保13年9月25日[1]1842年10月28日) - 大正8年(1919年2月26日)は、日本外交官政治家。外交官の時には朝鮮との外交交渉に携わり、退官後は元老院議官富山県知事貴族院議員などを務めた。錦鶏間祗候[2]

経歴

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天保13年(1842年)9月、大和国式下郡八尾村常盤町(現在奈良県磯城郡田原本町八尾)に萱野恒次の長男として生まれ、後に森山家を継いだ。

明治維新後に兵庫裁判所に出仕。明治2年(1869年)4月に外国官書記となり、同年7月の外務省創立により外務少録に任じられた。同年12月に日朝事情の調査のため従来の日朝外交を所管していた対馬藩釜山に出張した。明治3年(1870年)4月に外務権大録となり、同年10月に外務権少丞の吉岡弘毅の随行で朝鮮国に派遣され修交を求めたが、朝鮮側の倭学訓導安東晙に対馬藩吏以外との会見を拒否されたため、明治4年(1871年)11月に一旦帰国した。翌明治5年(1872年)1月、廃藩置県により対馬藩主から外務大丞となった宗重正名で、外交権限が対馬藩から外務省に移管された旨の文書を携えて再び朝鮮国と交渉したが、不調に終わった。その後、外務大録、外務少記と昇進。明治6年(1873年)12月の朝鮮国で排外論を唱える大院君の引退、明治7年(1874年)4月の訓導・安東晙の刑死を受けて、同年5月に再び朝鮮国へ派遣され、訓導・玄昔運などと日朝新関係成立について協議した。翌2月に正式代表として平壌へ赴き、饗亭を受けることになったが、森山たちは洋式礼服着用を主張し朝鮮側と激しく対立した[3]。明治7年12月に外務少丞、明治8年(1875年)12月に外務権大丞となり、日朝修好条規締結交渉を行う黒田清隆の随員となった。明治10年(1877年)4月、退官。

その後、元老院権大書記官・大書記官を務め、明治20年(1887年)12月から元老院議官、同23年(1890年)7月から2年間、富山県知事を歴任した。明治27年(1894年)4月18日[4]から大正8年(1919年)2月の死去[5]までの約25年間貴族院議員(勅選)を務めた。1899年(明治32年)12月25日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[6]。位階は従三位勲二等。

大正8年(1919年)2月に逝去。享年78。

栄典

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位階
勲章等

エピソード

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  • 幕末期の慶応3年(1867年)、幕府図書頭平山敬忠の示唆で、鬱陵島(ウルルン島)の開拓を志したが、明治維新を迎えたため、断念したという。
  • 明治8年(1875年)森山理事官は「軍艦を発遣し、対州(対馬)近海を測量せしめ、以て朝鮮国の内訌に乗じ、以て我応接の声援を為さんことを請うの議」という強硬な意見を寺島外務卿に提出した[13]

親族

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脚注

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  1. ^ 「森山茂特旨叙位ノ件」
  2. ^ 『官報』第1969号、大正8年2月27日。
  3. ^ 『韓国併合』海野福寿p13
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、6頁。
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、28頁。
  6. ^ 『官報』第4947号、明治32年12月26日。
  7. ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
  8. ^ 『官報』第3453号「叙任及辞令」1895年1月4日。
  9. ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
  10. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  11. ^ 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
  12. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  13. ^ 海野福寿『韓国併合』p15
  14. ^ a b c 森山茂『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  15. ^ a b 社会 | 奈良新聞WEB
  16. ^ 森山茂『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
  17. ^ 渡辺資政美術人名辞典

参考文献

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関連項目

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