森慈秀
森 慈秀 もり じしゅう | |
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生年月日 | 1890年12月5日 |
出生地 |
熊本県天草郡湯島村 (現上天草市大矢野町湯島) |
没年月日 | 1973年4月15日(82歳没) |
出身校 | 早稲田大学専門部法科 |
熊本県議会議員 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1935年 - ????年 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1958年4月 - 1970年4月 |
森 慈秀(もり じしゅう、1890年12月5日 - 1973年4月15日)は、熊本県天草郡湯島村(現上天草市)出身の政治家。熊本県議会議員(1期)、大矢野町長(3期)。天草五橋架橋の功労者として知られている[1]。
経歴
[編集]青年期
[編集]1890年(明治23年)12月5日、熊本県天草郡湯島村(天草諸島の湯島、現上天草市大矢野町湯島)に生まれた[2]。父は森幸吉、母は森タミ[1]。幼名は秀松であり、長男である[1]。
1901年(明治34年)には湯島村立尋常小学校4年課程を修了し、湯島村役場の小使となった。18歳か19歳の時、貿易商の親戚を頼って上海に渡航し、事業によって財を成した[1]。1917年(大正6年)または1918年(大正7年)頃に日本に引き揚げたが、この時には当時の金額で100万円を持ち帰っている[1]。
30歳を過ぎてから義弟の渡辺常吉とともに上京し[1]、1925年(大正14年)には早稲田大学専門部法科を卒業した[2]。渡辺は東京高等師範学校を卒業している[1]。
熊本県議時代
[編集]1935年(昭和10年)には天草郡区から熊本県議会議員選挙に初当選し、宇土半島の宇土郡三角町(現宇城市)と天草諸島の大矢野島に橋を架ける構想を提案したが、周囲の反応は冷ややかだった[2]。
戦後の1947年(昭和22年)には第1回参議院議員通常選挙が行われ、国民協同党から熊本地方区で出馬するが落選した[2]。1954年(昭和29年)には蓮田敬介が熊本県議会で天草架橋の提案を行い、天草諸島の住民の間で架橋の機運が高まったことから、1955年(昭和30年)1月には桜井三郎熊本県知事を会長、森を副会長とする天草架橋期成会が結成された[2]。約25万人の島民による「一人・一円献金」運動も行われている[2]。
大矢野町長時代
[編集]1958年(昭和33年)4月、天草郡大矢野町の住民から要請を受けて大矢野町長選挙に出馬し、68歳で大矢野町長に就任した[2]。1962年(昭和37年)には天草架橋の起工式が行われ、1966年(昭和41年)9月24日に天草五橋(天草パールライン)が開通した[2]。同年11月には自治功労者として勲五等双光旭日章を受章した[2]。1967年(昭和42年)12月5日、天草諸島住民有志によって森の銅像が建立された[2]。
1970年(昭和45年)4月には3期12年を務めた大矢野町長を退任し、在任期間中の給料全額を大矢野町に寄付した[2]。同年6月、森は大矢野町名誉町民に推挙された[2]。1973年(昭和48年)4月15日に82歳で死去し、大矢野町による町葬が行われた[2]。
死後
[編集]死後の1977年(昭和52年)、森の寄付によって大矢野町立森記念図書館(後の上天草市立大矢野森記念図書館)などが建設されている。1986年(昭和61年)、森は熊本県近代文化功労者として表彰された[2]。
2004年(平成16年)3月31日、大矢野町は姫戸町、松島町、龍ヶ岳町と合併して上天草市が発足した。同年11月7日には、上天草市誕生とテレビ熊本(TKU)開局35周年を記念して、ドキュメンタリードラマ郷土の偉人シリーズ『夢の架け橋 天草五橋の情熱をかけた男 森慈秀』(演:戸田開斗、原田龍二、小野武彦)がフジネットワーク九州ブロック7局で放映された[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 大矢野町役場『大矢野町史』大矢野町、1970年
- 「『天草五橋』架橋の提唱 森慈秀」『潮騒』天草文化協会、1999年、第15号