椎野長年
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椎野 長年(しいの の ながとし、生没年未詳)は、奈良時代中期の歌人。姓は連。
記録
[編集]百済の遺臣で、天智天皇4年(665年)8月に、憶礼福留と共に筑紫国に大野・基肄城の二つの古代山城を築いた四比福夫[1]の子孫で、渡来人系日本人だと思われる。『続日本紀』によると、一族の四比忠勇・四比河守は、それぞれ神亀元年(724年)5月と天平神護2年(766年)3月に椎野連の氏姓を賜与されている[2][3]。女性では、和銅7年(714年)11月に、四比信紗が亡夫の父母への孝養などにより課役を免除され、表彰されている[4]。
長年の経歴・事績については一切不明で、医術を以て朝廷に仕えたものだという説がある。『万葉集』におさめられている、以下の古歌の改作を行ったことで知られている。
橘の寺の長屋に我が率(ゐ)寝(ね)し童女(うなゐ)放(はな)りは髪上げつらむか (橘の寺の長屋にわたしが連れてきて寝た童女(うない)放(ばな)りは、もう髪を結い上げたことであろうか)[5]
この歌に官して、長年が「脈(とり)みて」いったことは、「寺院の建物は、俗人の寝るべきところではない。また若い女を(髪型から)『放髪丱(うなゐはなり)』と言うが、腰句(第四句)に既に使用されているから、尾句(第五句)に重ねて『著冠(ちゃくくゎん、髪を結い上げること)』と言わない方がよいだろう」と評し、以下のように改作している。
橘の照れる長屋に我が率(ゐ)寝(ね)し童女(うなゐ)放(はな)りに髪上げつらむか (橘の実の照る長屋にわたしが連れてきて寝たあの娘は童女放りに、髪を結い上げたことであろうか)[6]