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四比信紗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

四比 信紗(しひ の しなさ、生没年不詳)は、奈良時代の女性。大和国有智郡(現在の五條市)の人。

出自

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先祖の四比福夫は、白村江の戦いの際に百済から倭国日本)へ亡命した渡来人であり、『日本書紀』巻第二十七によれば、天智天皇4年(665年)8月に、同じく百済の遺臣で達卒の憶礼福留とともに筑紫国大野椽城の二つの古代山城を築き[1]大宰府の背後と南部の警護を固めている。『続日本紀』巻第九によると、一族の四比忠勇には、神亀元年(724年)に椎野連の氏姓が賜与されており[2]、同巻第二十七では、天平神護2年(766年)3月に四比河守にも同じ氏姓が与えられている[3]。また、夫君の氏果安(うじ の はたやす)も、『書紀』の欽明天皇31年(570年)4月に、高句麗使節の歓迎の使者として派遣された東漢氏直糠児(やまとのあや の うじ の あたい あらこ)の名が見えるところから[4]、同じく渡来人系の東漢氏の支族であろうと思われる。

記録

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続日本紀』巻第六の語るところによると、信紗は氏直果安の妻で、舅や姑に仕えて孝行者として名が知られていた。夫の亡き後も積年の志を守り、自分が産んだ幼子と妾の子も含めた8人の子供を引き連れ、撫養するのに区別がなかった。舅や姑に仕えて、自ら婦人としての礼を尽くしたため、鄕里に感歎された。和銅7年(714年)11月、元明天皇はこれを表彰し、終身租税の負担を免除した、という[5]

この時代、孝順であることは表彰されるべきことであり、文武天皇の詔によると、「曽祖父から玄孫に至るまで、累代孝行を尽くす一家の全員の賦役を免除し、家の門や里の入口に立て札を立てて掲示し、義家とする」[6]ということになっていた。これは賦役令17の「孝子順孫条」により規定されたものでもある。

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』天智天皇4年8月条
  2. ^ 『続日本紀』聖武天皇、神亀元年5月13日条
  3. ^ 『続日本紀』称徳天皇、天平神護2年3月17日条
  4. ^ 『日本書紀』欽明天皇31年4月是月条
  5. ^ 『続日本紀』元明天皇、和銅7年11月4日条
  6. ^ 『続日本紀』文武天皇、大宝2年9月21日条

参考文献

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  • 『日本書紀』(三)・(五)、岩波文庫、1994年、1995年
  • 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12 岩波書店、1989年
  • 『続日本紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年

関連項目

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