四比信紗
四比 信紗(しひ の しなさ、生没年不詳)は、奈良時代の女性。大和国有智郡(現在の五條市)の人。
出自
[編集]先祖の四比福夫は、白村江の戦いの際に百済から倭国(日本)へ亡命した渡来人であり、『日本書紀』巻第二十七によれば、天智天皇4年(665年)8月に、同じく百済の遺臣で達卒の憶礼福留とともに筑紫国に大野・椽城の二つの古代山城を築き[1]、大宰府の背後と南部の警護を固めている。『続日本紀』巻第九によると、一族の四比忠勇には、神亀元年(724年)に椎野連の氏姓が賜与されており[2]、同巻第二十七では、天平神護2年(766年)3月に四比河守にも同じ氏姓が与えられている[3]。また、夫君の氏果安(うじ の はたやす)も、『書紀』の欽明天皇31年(570年)4月に、高句麗使節の歓迎の使者として派遣された東漢氏直糠児(やまとのあや の うじ の あたい あらこ)の名が見えるところから[4]、同じく渡来人系の東漢氏の支族であろうと思われる。
記録
[編集]『続日本紀』巻第六の語るところによると、信紗は氏直果安の妻で、舅や姑に仕えて孝行者として名が知られていた。夫の亡き後も積年の志を守り、自分が産んだ幼子と妾の子も含めた8人の子供を引き連れ、撫養するのに区別がなかった。舅や姑に仕えて、自ら婦人としての礼を尽くしたため、鄕里に感歎された。和銅7年(714年)11月、元明天皇はこれを表彰し、終身租税の負担を免除した、という[5]。
この時代、孝順であることは表彰されるべきことであり、文武天皇の詔によると、「曽祖父から玄孫に至るまで、累代孝行を尽くす一家の全員の賦役を免除し、家の門や里の入口に立て札を立てて掲示し、義家とする」[6]ということになっていた。これは賦役令17の「孝子順孫条」により規定されたものでもある。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本書紀』(三)・(五)、岩波文庫、1994年、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12 岩波書店、1989年
- 『続日本紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年