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四比福夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

四比 福夫(しひ ふくぶ、生没年不詳)は、百済官吏あるいは武人。官位は達卒。故国の滅亡に伴い、白村江の戦いの後に倭国日本)へ亡命した。

記録

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岸俊男は、「四比」は百済の都である泗沘城に由来するのではないか、という説を唱えている。

日本書紀』によれば、天智天皇4年(665年)8月には、同じく百済の遺臣で達卒の憶礼福留と共に筑紫国に派遣され、

大野(おほの)及び(き)、二城(ふたつのき)を築かしむ[1]

とあり、二つの古代山城を築き、それぞれ大宰府の背後と南部とを防衛させている。これらの城が福留や福夫らの亡命百済人によって指導されて築城されていることより、大宰府も、百済の都城に相似している点が指摘されている。

続日本紀』によると、一族の四比忠勇には、神亀元年(724年)に椎野連の氏姓が賜与されている[2]天平神護2年(766年)3月に四比河守も同じ氏姓を賜っている[3]。女性では、和銅7年(714年)11月に、四比信紗が亡夫の父母への孝養により課役を免除されたことが記述されている[4]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇4年8月条
  2. ^ 『続日本紀』巻第九、聖武天皇、神亀元年5月13日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第二十七、称徳天皇、天平神護2年3月17日条
  4. ^ 『続日本紀』巻第六、元明天皇、和銅7年11月4日条

参考文献

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  • 『日本の古代9 都城の生態』、岸俊男:編、中公文庫、1996年
  • 『日本書紀』(五)岩波文庫、1995年
  • 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『続日本紀』1・2・3 新日本古典文学大系12・13・14 岩波書店、1989年・1990年・1992年
  • 『続日本紀』全現代語訳(上)・(中)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
  • 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
  • 『白村江-古代東アジア大戦の謎』遠山美都男講談社現代新書、1997年
  • 『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』倉本一宏、講談社現代新書、2017年

関連項目

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