横須賀緑荘誤爆事件
横須賀緑荘誤爆事件 | |
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爆発で破壊された緑荘 | |
場所 | 日本 神奈川県横須賀市不入斗町 |
日付 |
1975年(昭和50年)9月4日 午前2時36分 (日本標準時) |
概要 | 「緑荘」の102号室が爆発 |
原因 | 中核派の爆弾密造における誤爆 |
死亡者 | 5 |
負傷者 | 9 |
謝罪 | なし |
賠償 | なし |
横須賀緑荘誤爆事件(よこすかみどりそうごばくじけん)とは、1975年(昭和50年)9月4日(木)に神奈川県横須賀市で発生した爆発事件である[1]。
事件の概要
[編集]1975年(昭和50年)9月4日午前2時36分頃、神奈川県横須賀市不入斗町(いりやまずちょう)の木造2階建てアパート「緑荘」の1階102号室で突然大爆発が起こった。この爆発で同室にいた男女3人と、真上の部屋の母娘2人の合わせて5人が死亡、9人が負傷した他、緑荘と隣家1棟が全壊し2棟が半壊、36棟が一部損壊した[2][3]。
5人の遺体は30メートルほど離れた民家の庭などに散乱し、中には頭部や手足が吹き飛ばされた遺体もあった[3][4]。
当初はプロパンガスの爆発事故と見られていたが、神奈川県警察が捜査したところ、死亡した102号室の男女3人は革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)の活動家であることが判明した(真上の部屋の母娘2人は中核派とは無関係)[5]。
事件の背景
[編集]中核派が初めて爆弾を使用したのは、70年安保闘争最中の1969年(昭和44年)10月21日、米軍立川基地内等であった。この時使用されたのは紙円筒爆弾で、直径約5センチメートル、長さ約14センチメートルのボール紙の筒に黒色火薬を詰め、黒色火薬を詰め込んだ「紙こより」を導火線とした簡単なものであった。当時、極左が製造していた爆弾は、ピース缶や空き瓶を容器としており、火力が小さく、また点火不良による不発も多かった。使用目的も、対人殺傷というよりは寧ろ世間の注目を集めることに主眼が置かれていた[6]。
しかし、1971年(昭和46年)6月17日、赤軍派が起こした明治公園爆弾事件以降は、対人殺傷目的へとその目的が凶悪化していった[6]。
当時は昭和天皇の訪米が予定されており、中核派はそれを阻止しようと皇室関連施設の爆破を企て、この非公然アジトで爆弾を製造し、翌日の決行のため準備していたところ、誤って爆発させたことがわかった。
この事故により、中核派は爆弾闘争の頓挫を余儀なくされ、以後9年間爆発物の製造を断念することになった。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 警備研究会 2017, p. 177.
- ^ 事件簿40年史 2001, p. 77.
- ^ a b 「アパートで爆弾?爆発 横須賀 5人死亡9人ケガ 31棟被害 死んだ男を追求」『読売新聞』1975年9月4日、東京夕刊、1面。
- ^ 「まきぞえ爆発、恐怖の住宅街 深夜の大音響アパート吹っ飛ぶ 遺体無残、30メートルも」『読売新聞』1975年9月4日、東京夕刊、7面。
- ^ 「爆弾製造中に爆発? 横須賀のアパート爆発 死者に過激派三人」『朝日新聞』1975年9月5日、東京朝刊、1面。
- ^ a b 事件簿40年史 2001, pp. 77–79.
参考文献
[編集]- 警備研究会 編『極左暴力集団・右翼101問(改訂)』立花書房、2000年。
- 「18. 中核派爆弾製造アジト「緑荘」誤爆事件」『過激派事件簿40年史』立花書房〈別冊治安フォーラム〉、2001年8月20日、115-117頁。ISBN 9784803714081。
- 警備研究会『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集』 五訂、立花書房、2017年2月1日。ISBN 9784803715415。
関連項目
[編集]- 日本の新左翼
- 誤爆
- 爆死
- 薔薇の詩 - 上記グループが爆弾を製作する際参考にしたといわれる文献。
- 大阪火炎瓶大量発射事件