琉球大学内ゲバ誤認殺人事件
琉球大学内ゲバ誤認殺人事件 | |
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場所 | 日本・沖縄県那覇市首里、琉球大学 |
日付 |
1974年(昭和49年)2月8日 午後1時50分頃 (日本標準時) |
概要 | 中核派が無関係の男子学生を革マル派と誤認し殺害 |
攻撃側人数 | 7 - 8 |
武器 | 鉄パイプ、バール |
死亡者 | 1(男子学生) |
犯人 | 革命的共産主義者同盟全国委員会 |
琉球大学内ゲバ誤認殺人事件(りゅうきゅうだいがくうちげばごにんさつじんじけん)とは、1974年(昭和49年)2月8日に沖縄県で発生した革命的共産主義者同盟全国委員会(以下、中核派)による誤認殺人事件である。
事件の概要
[編集]中核派と日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)は、東京教育大学生リンチ殺人事件の発生以降、血みどろの内ゲバ殺人を繰り返していた。
2月8日午後1時50分ごろ、沖縄県那覇市首里、琉球大学教養学部プレハブ校舎A2教室に黒いストッキングで覆面をした7、8人の男が侵入、1 - 4年合同の物理概説の講義を受けていた法文学部英文科1年生の男子学生(以下、H)を教壇に引き摺り出し、鉄パイプ等で滅多打ちにした。Hは病院に運ばれたが、頭蓋骨骨折で同日午後5時5分に死亡した[1][2][3]。
目撃した学生の証言によると、犯人達は「自治会長はいるか[注釈 1]」と喚きながら教室内に乱入し、逃げ遅れたHを襲った。しかし、Hは自治会役員では無く、左翼活動と無関係の一般学生を自治会長と誤認して殺害したと見られる[1]。
この時の状況を革マル派の機関紙『解放』は次のように伝えた[4]。
午後一時四十分ごろ、彼らブクロ中核派の殺し屋八人は、二台のレンタカーで乗りつけ、手に手に殺人用バールと先を鋭くとがらせた鉄パイプを持ち、そのゆがんだ顔を黒のストッキングでおおいかくしつつ、七十名余の学生が講義(物理学概説)を受けていた教養Aの教室に後方から突如として乱入した。そして『自治会長のYはいるか! Yはどこだ!』とヒステリックに叫び、ギャーギャーとわめきちらしたのである。時ならぬこの殺し屋どもの乱入と叫び声に驚いた受講中の学生たちは、騒然となって身を窓ぎわに退けた。だがその時、一人黒板の方向に走って待避せんとしたH君を、殺し屋どもはその顔を何ら確かめることもなく『あれがYだ 殺(や)れ!」と口々にわめきながら、バール、鉄パイプなどの殺人用武器をふりかざして、背後から襲い掛かり、彼、H君の後頭部に狙いを定めてメッタ打ちにしたのである。一瞬のうちに一面に血が散乱し、H君は即死状態に陥れられた。殺害されたH君の肉体は、全身にわたって破壊され、目を覆うばかりの惨殺である。でん部は深さ十四センチにわたってバールで突きさされ、ひ臓、腎臓は完全に破裂し、全身数十ヵ所にわたって、バール、鉄パイプがくいこみえぐられている。そればかりではない。集中的に狙いうちされた後頭部はメチャクチャに砕けちり、その傷口からは脳みそが露出し、しかもその脳内に頭蓋骨と鉄くずがくい込むという、あまりにもむごたらしい殺害であった[4]。
一方、中核派は機関紙『前進』で次のように開き直った[5]。
被疑者の逮捕
[編集]1983年(昭和58年)7月14日、警視庁公安部は沖縄県警察から本事件で指名手配されていた元香川大学生を殺人の疑いで逮捕。1974年(昭和49年)12月の指名手配から8年8か月ぶり[7]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 立花隆『中核VS革マル』 下、講談社〈講談社文庫〉、1983年1月15日。ISBN 9784061341845。