コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

櫟信平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
櫟 信平
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市
生年月日 1925年6月22日
没年月日 (2008-06-10) 2008年6月10日(82歳没)
身長
体重
176 cm
65 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1949年
初出場 1949年4月6日
最終出場 1951年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 大阪タイガース
    阪神タイガース (1960 - 1963, 1974)

櫟 信平(いちい しんぺい、1925年6月26日 - 2008年6月10日[1])は京都府京都市出身のプロ野球選手内野手)・コーチ

経歴

[編集]

同志社大学は実力で合格し、トップを争うほどの秀才であった。関西六大学リーグでは3季連続で首位打者を獲得し、大阪タイガースも獲得を目指していたが、1949年に既に契約していた東急フライヤーズへ入団[2]4月6日大映戦(後楽園)に6番・一塁手で初出場を果たし、同9日中日戦(後楽園)で杉下茂から初安打・初本塁打・初打点を記録。13日の大阪戦(西宮)では打球がフェンス天辺に当たってフィールドに跳ね返った事を審判団が確認したうえで本塁打と認めたが、連盟提訴の結果規則解釈の誤りとされ無効試合となったため後日取り消しとなった[3] [4]。1年目は99試合に出場したが、大下弘とトラブルを起こす。1950年に大阪タイガースへ移籍し、自己最多の109試合出場で11本塁打を放つ[2]。守備の良い一塁手として活躍し、川上哲治と同じ背番号16の左打ちの一塁手と言うことで、巨人戦で一塁に出塁すると「ニセモノ!」という野次が飛んだという[5]1951年にも105試合に出場してレギュラーを守ったが、1952年に胸部疾患が発見されて[2]東京の病院に入院。同年は治療のため出場ゼロに終わり、1953年に現役を引退[2]

引退後は大阪→阪神の一軍打撃コーチ(1960年 - 1962年, 1974年)、二軍打撃・守備コーチ(1963年)、スカウト(1964年 - 1973年, 1975年 - 1976年)を歴任[2]。コーチ1年目の1960年には現役志願してキャンプで打撃練習をしたほか、3年目の1962年にはリーグ優勝に貢献。スカウト時代には掛布雅之を獲得[2]し、コーチ復帰した1974年には1年目の掛布やボビー・テーラーを指導。 

阪神退団後は中央区銀座に靴店を構え、1983年からは近鉄バファローズのスカウトに就任[2]

2008年6月10日、老衰のため死去。82歳没[6]

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1949 東急 99 298 259 23 62 13 2 8 103 42 3 2 0 -- 39 -- 0 44 -- .239 .339 .398 .737
1950 阪神 109 320 282 36 70 8 4 11 119 48 5 0 2 -- 34 -- 2 45 2 .248 .333 .422 .755
1951 105 345 309 38 74 11 2 6 107 35 2 0 2 -- 32 -- 2 24 1 .239 .315 .346 .661
通算:3年 313 963 850 97 206 32 8 25 329 125 10 2 4 -- 105 -- 4 113 3 .242 .328 .387 .716

背番号

[編集]
  • 5(1949年)
  • 16(1950年 - 1953年)
  • 65(1960年 - 1963年)
  • 72(1974年)

脚注

[編集]
  1. ^ http://npb.jp/bis/players/91193898.html
  2. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、48ページ
  3. ^ 試合自体が無効となったため参考記録。
  4. ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年、pp.492-496
  5. ^ 野球の記録で話したい : 知る人ぞ知る選手 File22 櫟 信平|野球史
  6. ^ 櫟信平氏死去 元プロ野球選手”. 共同通信 (2008年6月11日). 2013年5月24日閲覧。[リンク切れ]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]