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正親町三条公積

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
正親町三条公積
時代 江戸時代中期
生誕 享保6年9月3日1721年10月23日
死没 安永6年6月2日1777年7月6日
官位 従二位権大納言従一位
主君 中御門天皇桜町天皇桃園天皇
氏族 正親町三条家
父母 父:正親町三条実彦
三条西公福の娘
実同実章周子
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正親町三条 公積(おおぎまちさんじょう きんつむ)は、江戸時代中期の公卿。最終官位従二位権大納言(薨去後従一位追贈)。正親町三条家23代。

経歴

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享保10年(1725年)に叙爵。以降累進して、侍従左近衛少将春宮権亮左近衛中将をへて、寛保3年(1743年)に参議となり、公卿に列する。延享2年(1745年)に参議を辞した。権中納言踏歌節会外弁・大宰権帥をへて、宝暦4年(1754年)に権大納言となる。しかし宝暦8年(1758年幕府による弾圧事件「宝暦事件」に連座して蟄居せざるを得なくなった。桃園天皇も公積を側近として重用していたが、この事件後、幕府の圧力で官職を止めざるを得なくなった。さらに宝暦10年(1760年)には出家させられており、薨去まで完全に朝廷から切り離された。

しかし徳川幕府崩壊後、他の同事件連座者たちと同様公積も晴れて名誉回復。明治天皇からも勤王の功績を認められ、従一位が追贈された。 なお明治天皇は公積の来孫に当たる[1]

系譜

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脚注

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  1. ^ 公積-実同-綱子(中山忠頼室)-中山忠能慶子孝明天皇典侍)-明治天皇

関連項目

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