毛利登人
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時代 | 江戸時代末期(幕末) |
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生誕 | 文政4年7月6日(1821年8月3日) |
死没 | 元治元年12月19日(1865年1月16日) |
別名 | 諱:貞武、武、号:主静庵、斤田 |
墓所 | 東光寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 吉敷毛利家 |
父母 | 父:毛利虎十郎 |
毛利 登人(もうり のぼる)は、幕末期の長州藩士。諱は貞武や武。甲子殉難十一烈士 の1人。
生涯
[編集]吉敷毛利家の末家、毛利虎十郎(大組600石)の嫡男として誕生。長州藩主毛利敬親の世子、毛利定広(後の元徳)の小姓として在京し、勤王の志士との交流を深め、大きな影響を受けた。
文久3年(1864年)の馬関戦争では宍戸刑部こと高杉晋作とともに、毛利出雲と称して四国連合艦隊との停戦の副使となったが、その直後の同年秋の第1次長州征伐の後に俗論派が藩論を主導するようになると、前田孫右衛門、大和弥八郎らと共に謹慎処分を受け、蟄居した。12月には野山獄に投じられ、山田亦介、松島剛蔵、前田孫右衛門、大和国之助、楢崎弥八郎、渡辺内蔵太らと処刑された。
辞世の歌は「皇の 道しるき世を ねかふかな わが身はこけの したにくつとも」。