水谷川忠俊
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水谷川 忠俊(みやがわ ただとし、1935年12月9日[1] - )は、日本の作曲家、雅楽研究家。旧姓名・近衛俊健[1][2]。
人物・来歴
[編集]近衛秀麿の三男(非嫡出子)として大阪市東区久宝寺町に生まれる[3]。母は坪井文子。1937年7月22日、父秀麿により、大阪市東区役所に出生届が出される[4]。1939年10月19日、父の末弟である水谷川忠麿の養子となり、忠俊と改名[1]。物心ついたときは東京千駄ヶ谷の忠麿のアトリエにおり、生母の記憶はないという[4]。
学習院初等科在学中、奈良県に転居し、奈良女子高等師範学校附属小学校(現・奈良女子大学附属小学校)から同中学校・同高校(現・奈良女子大学附属中等教育学校)を卒業。上京後、山本直純の助手を務めながら作曲を学ぶ。1962年8月、マドリード王立音楽院の給費留学生の試験に合格し、スペインに留学[5]。1963年、ベルリン市立音楽院(現・ベルリン芸術大学)に留学。1968年、日本に帰国。
家族・親族
[編集]実兄の近衛秀健も作曲家で指揮者。妻は子爵阿野季忠の長男阿野季房の娘で、学習院初等科の同級生だった佐喜子[5]。長女の水谷川陽子はヴァイオリニスト、次女の水谷川優子はチェリスト。
系譜
[編集]水谷川家
[編集]水谷川家は、近衛忠熙の子である水谷川忠起を始祖とし、奈良華族として列せられた。
→詳細は「水谷川家」を参照
近衞家
[編集]近衞家は、藤原忠通の子である近衞基実を始祖とし、五摂家の一つであった。
→詳細は「近衛家」を参照
皇室との関係
[編集]後陽成天皇の男系十三世子孫である。後陽成天皇の第四皇子で近衛家を継いだ近衛信尋の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
作品
[編集]民謡
[編集]テレビドラマ音楽
[編集]- TBS「安ベエの海」(1969年-1970年)
- フジテレビ「白い恐怖」(1975年)
- NHK「新西洋事情(3) 味噌汁派欧州へ行く」(1977年)
- テレビ東京「妻たちが買った危険な一夜」(1988年)
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 大野芳『近衛秀麿:日本のオーケストラをつくった男』講談社、2006年。ISBN 4-06-212490-4。