池田政和 (天城池田家)
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時代 | 江戸時代幕末 - 明治時代 |
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生誕 | 嘉永6年9月4日(1853年10月6日)[1] |
死没 | 明治45年(1912年)3月31日)[1] |
改名 | 伊勢、貞彦[1] |
墓所 | 天城池田家墓所(岡山県倉敷市) |
藩 | 備前岡山藩 |
氏族 | 池田氏(天城池田家) |
父母 |
父:池田政昭 母:輝(浅野忠敬二女、池田政徳養女)[1] |
兄弟 | 政和、万亀子(土倉正彦室)、日置健太郎[1] |
子 | 盈子(土倉光三郎の妻)、政典、政佑[1] |
池田 政和(いけだ まさやす[1])は、天城池田家の第11代当主。幕末期に幼くして備前岡山藩家老となり、明治維新後は華族に列して男爵に叙せられた。
生涯
[編集]嘉永6年(1853年)9月4日、天城池田家第10代池田政昭の次男として生まれる。慶応元年(1865年)、父政昭の死去により天城領3万石を相続する[1]。
明治元年(1868年)、官軍の先鋒として東北各地に転戦する。清和院門警備を命ぜられる。
明治24年(1891年)12月、男爵に叙され華族となる[1]。同年正五位。
明治40年(1907年)に隠居し、嫡子の政佑に家督を譲った。明治45年(1912年)3月31日没。
栄典
[編集]家族・親族
[編集]父は先代の当主池田政昭。母の輝は広島藩家老浅野忠敬の二女で、池田政徳の養女[1]。姉の万亀子は岡山藩家老土倉正彦の妻となり、弟の日置健太郎は叔父にあたる岡山藩家老日置忠尚の養子となった[1]。
『平成新修旧華族家系大成』は2男1女を記す。長女の盈子は土倉光三郎の妻となった。長男の政典は夭折したため、次男の政佑が家督を継ぐこととなった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 (天城)池田家初代 1891年 - 1907年 |
次代 池田政佑 |