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池田政佑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池田政佑の墓

池田 政佑(いけだ まさすけ、明治16年(1883年12月1日 - 昭和元年(1926年12月31日[1])は、明治 - 大正期の華族男爵)、陸軍軍人陸士17期。最終階級は陸軍歩兵少佐[2]

岡山藩家老天城池田家の第12代当主。大正天皇の崩御に際し殉死した。

生涯

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明治16年(1883年)12月1日、天城池田家第11代・池田政和(元・岡山藩次席家老〈3万2千石〉、士族)の嫡男として生まれる。

陸軍東京幼年学校[3]陸軍中央幼年学校[4]を経て、明治38年(1905年)3月30日に陸軍士官学校17期、歩兵科)を卒業[5]。明治39年(1906年)1月20日に陸軍歩兵少尉に任官し、近衛歩兵第2連隊[6]

明治40年(1907年)、父・政和(男爵)の隠居により家督を相続し、同年9月11日、男爵を襲爵[7]。大正13年(1924年)まで近衛歩兵第3連隊に勤務。政佑は「謹厳な皇室中心主義者」で「常に乃木将軍の行為を礼讃していた」という[8]

大正15年(1926年)12月25日、大正天皇崩御すると、政佑は6日後の31日に自決した。享年41。宮武外骨は、政佑の死を大正天皇への殉死と評価した[8]。死亡の際には予備役の陸軍歩兵少佐であった[2][8]。墓所は天城池田家墓所(岡山県倉敷市)。

栄典

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家族・親族

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池田政和の次男。兄の政典は政佑の出生前に夭折している。姉の盈子は、旧岡山藩家老家の土倉光三郎男爵に嫁いだ。

妻は島村干雄陸軍中将の長女春子[1]。2男3女があった[1]。家督は、昭和2年(1927年)長男政之が相続し、男爵の爵位を襲爵する[1]

脚注

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  1. ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、107頁。
  2. ^ a b 官報(昭和2年1月8日号)』大蔵省印刷局、1927年、74頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2956464/1/6 
  3. ^ 官報(明治32年6月16日号)』大蔵省印刷局、1899年、250頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2948076/1/4 
  4. ^ 官報(明治37年6月3日号)』大蔵省印刷局、1904年、56頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2949595/1/5 
  5. ^ 官報(明治38年4月4日号)』大蔵省印刷局、1905年、102頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2949856/1/24 
  6. ^ 官報(明治39年1月22日号)』大蔵省印刷局、1906年、484頁https://dl.ndl.go.jp/pid/2950105/1/5 
  7. ^ 『官報』第7263号、明治40年9月12日。
  8. ^ a b c 宮武(1931)、p.42
  9. ^ 『官報』第6135号「叙任及辞令」1903年12月12日。

関連項目

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参考文献

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日本の爵位
先代
池田政和
男爵
(天城)池田家第2代
1907年 - 1926年
次代
池田政之