池谷半二郎
池谷 半二郎(いけたに はんじろう、1900年(明治33年)1月25日[1][2] - 1984年(昭和59年)3月17日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]静岡県出身[1][2][3]。池谷幸作の二男として生まれる[1]。静岡中学校[1](現静岡県立静岡高等学校)[注釈 1]、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業[1][2][3]。同年10月、工兵少尉に任官し工兵第9大隊付となる[1][3]。1924年(大正13年)12月、陸軍砲工学校高等科(30期)を卒業し、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を優等で卒業した[2][3][4]。
1930年(昭和5年)8月、工兵大尉に昇進[1]。1932年(昭和7年)2月、参謀本部員(船舶班)に就任[1]。ドイツ駐在、ソビエト連邦駐在、陸大教官を務め、1936年(昭和11年)8月、工兵少佐に昇進した[1]。1937年(昭和12年)10月、第10軍参謀に就任し、中支那方面軍参謀、陸大教官を経て、1938年(昭和13年)6月、第11軍参謀に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。同年7月、工兵中佐に進級し、同年12月、陸大教官に転じた[1][3]。1939年(昭和14年)12月、大本営船舶部長に就任し、参謀本部課長に異動し、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進んだ[1][3]。
1941年11月、第25軍参謀に発令され太平洋戦争に出征し、マレー作戦、シンガポールの戦いに参戦した[1][2][3]。陸軍省整備局交通課長を経て、1944年(昭和19年)3月、第1方面軍参謀に就任して満州に赴任[1][2][3]。同年12月、第3軍参謀長に転じ、1945年(昭和20年)3月、陸軍少将に進級して、牡丹江で終戦を迎えた[1][2][3]。その後、1950年(昭和25年)5月までシベリア抑留となった[1]。
親族
[編集]- 義父 西郷吉弥(陸軍軍医少将)[1]
著書
[編集]- 『或る作戦参謀の回想』岩井依理子、1978年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 静中・静高同窓会会員名簿には「池谷半二郎」の名では記載がない。