河原林義雄
河原林 義雄(かわらばやし よしお、1851年7月28日(嘉永4年7月1日[1])- 1910年(明治43年)7月16日[2])は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(3期)。号・伯規[1]。
経歴
[編集]丹波国桑田郡大野村[1](京都府北桑田郡山国村[3]、京北町を経て、現京都市右京区)で、代々名主・庄屋を務めた河原林家、安左衛門、はつ夫妻の長男として生まれる[1]。1869年(明治2年)長州藩士・長松幹に従って東京に上り頼支峯に漢学を師事した[1]。1870年(明治3年)帰郷し田原正績の咸休塾に入門し塾頭となる[1]。1873年(明治6年)但馬物産会社に入社し養蚕牧畜に従事[1]。1876年(明治9年)に帰郷し地租改正評価人となり、1879年(明治12年)北桑田郡の設置に伴い郡書記に任じられ、1881年(明治14年)9月に退官した[1]。その後自由民権運動に加わり、1889年(明治22年)京都府下の有志と交話会を結成し、自由党の再建後、同党京都支部長に就任した[1]。
1882年(明治15年)京都府会議員に初当選し[1]、1886年(明治19年)[3]から1894年(明治27年)まで連続して再選された[1]。1891年(明治24年)[注 1]10月、府会議長(第5代)に挙げられ1894年の府議退任まで務めた[1]。この間、常置委員、第五組幹事、郡部会副議長を務めた[1]。その他、山国村会議員にも在任した[1]。
1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では京都府郡部から出馬し当選[2]。その後、第4回、第9回総選挙で当選し衆議院議員を通算3期務めた[2]。第10回総選挙では落選して政界での活動を引退したが、終生、立憲政友会に在籍した[1]。
1893年(明治26年)京都電気鉄道の発起人に就任[1]。また1889年(明治22年)から京鶴鉄道の実現に有志と共に尽力し、1895年(明治28年)京都鉄道が設立されると取締役に就任した[1]。ほか、京都米穀商品取引所理事、京都農商銀行頭取、嵯峨木材社長、京都府教育会長、勧業博覧会評議員などを歴任した[2]。
1910年7月、胃癌のため京都市で死去した[1]。
親族
[編集]- 義弟 野尻岩次郎(衆議院議員、妻ひさ弟)[1]
- 長男・河原林象三(1881年生) - 日本硏磨砥石監査役、日本建材工業社代表社員[4]
- 娘・富栄(1877年生) -東洋レーヨン常務・河原林檉一郞の妻[4]
- 娘・カズ(1887年生) - 川田順の妻 [4]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『成功亀鑑』65頁では明治27年。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 尾野好三 編『成功亀鑑』大阪実業興信所、1909年 。
- 京都府議会事務局編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、1961年。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。