コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

竹上藤次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)1月17日[1])- 1961年昭和36年)8月13日[1][2])は、大正から昭和期の日本の実業家政治家衆議院議員、京都府会議長、京都商工会議所会頭。

経歴

[編集]

京都府[2] 京都市上京区五辻通大宮五辻町で[1]、生糸問屋「八文字屋」通称「八藤」当主・竹上藤造の二男として生まれる[1][3]。桃薗校を経て京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)に入学[1]。1902年(明治35年)弁護士を目指して京都法政学校(現立命館大学)に転じたが、同年末、父の意思で第一商業に復帰し、1907年(明治40年)3月に卒業[1]。その後、日本大学法律学科に進んだが、家業の継承のため中退し帰郷した[1]

1913年(大正2年)5月、竹上生糸 (株) を設立して社長に就任し、1918年(大正7年)10月に個人経営に復して、1940年(昭和15年)統制令による廃業まで経営した[1]。その他、竹上商店社長、京都蚕糸商同業組合長、京都商工会議所会頭、京都染織見本市協会理事長、京都府商工経済会会頭、日本生糸取締役、京都ホテル社長、京都ステーションホテル社長、満洲皮革社長、京都繊維取引社長、京都貿易社長、内外印刷取締役会長、日本レース取締役、相互運送取締役、京都株式取引所理事、京都府繊維製品取締役社長などを務めた[1][2][3][4]

政界では1913年(大正2年)4月、京都市会議員に当選[1]。1915年(大正4年)9月、京都府会議員に選出され1920年(大正9年)5月まで2期在任[1]。この間、同市部会議長、同参事会員(2期)、同議長(1919年10月-1920年5月)などを務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙(京都府県第1区、 立憲政友会公認)で当選し[1][4][5]、政友会の分裂後は無所属となり[1]、衆議院議員に1期在任した[2]

戦後公職追放となった[6]。1949年(昭和24年)9月、追放解除により京都商工会議所顧問を委嘱され、死去するまで在任した[1]

国政選挙歴

[編集]

著作

[編集]
  • 『実験商業経営法 上巻』京都蚕糸商同業組合、1909年。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『京都府議会歴代議員録』130-133頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』575頁。
  3. ^ a b 『人事興信録 第8版』タ179頁。
  4. ^ a b 『京都大事典』835頁。
  5. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第14回』4頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿635頁。公職追放の該当事項は「翼賛京都府協翼賛体制協議会構成員」。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』83頁。
  8. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第16回』12頁。

参考文献

[編集]
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第16回』衆議院事務局、1928年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 京都府議会事務局編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、1961年。
  • 『京都大事典』淡交社、1984年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
先代
田中博
京都商工会議所会頭
1940年 - 1946年
次代
中野種一郎