河合操
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生誕 |
1864年10月26日 豊後国速見郡杵築村 |
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死没 |
1941年10月11日(76歳没) 東京府東京市杉並区 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1879年 - 1926年 |
最終階級 | 陸軍大将 |
指揮 |
参謀総長 軍事参議官 関東軍司令官 第1師団長 歩兵第7旅団長 |
戦闘 | 日露戦争 |
除隊後 | 枢密顧問官 |
河合 操(かわい みさお、1864年10月26日(元治元年9月26日) - 1941年(昭和16年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
経歴
[編集]杵築藩士、河合盛益の二男として生れる。1879年11月、陸軍教導団に入り工兵軍曹を経て、1886年6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。1892年12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。台湾総督府参謀として1895年8月から1897年2月まで台湾に出征した。その後、陸大教官、ドイツ駐在、大本営参謀などを歴任。
日露戦争では、満州軍参謀として出征し、遼陽会戦後に第4軍参謀、さらに第3軍参謀副長となった。ドイツ駐在、陸大教官、陸大幹事、陸軍省軍務局歩兵課長を経て、1910年11月、陸軍少将に進級し、歩兵第7旅団長、人事局長、陸大校長を歴任。1915年8月、陸軍中将となり、第1師団長、関東軍司令官を歴任。1921年4月、陸軍大将となり、軍事参議官、参謀総長を務め、1926年3月に予備役に編入。1927年5月から没するまで枢密顧問官を務めた。
子宝に恵まれず、1931年に妻を亡くした後は妹が家事を担った[1]。1941年10月11日、狭心症のため杉並区堀ノ内の自宅で死去[2]。法名は「徳操院殿鉄心宗忠大居士」。青山墓地に葬られた[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)11月27日 - 正八位[3][4]
- 1892年(明治25年)1月27日 - 従七位[3][5]
- 1894年(明治27年)12月18日 - 正七位[3][6]
- 1900年(明治33年)2月10日 - 従六位[3][7]
- 1904年(明治37年)9月13日 - 正六位[3][8]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 従五位[3][9]
- 1911年(明治44年)2月10日 - 正五位[3][10]
- 1915年(大正4年)9月10日 - 従四位[3][11]
- 1917年(大正6年)10月1日 - 正四位[3][12]
- 1920年(大正9年)10月11日 - 従三位[3][13]
- 1923年(大正12年)12月10日 - 正三位[3][14]
- 1930年(昭和5年)3月15日 - 従二位[3][15]
- 1937年(昭和12年)4月1日 - 正二位[3][16]
- 1941年(昭和16年)10月11日 - 従一位[3][17]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[3]
- 1896年(明治29年)4月11日 - 功五級金鵄勲章・勲六等瑞宝章[3][18]
- 1899年(明治32年)3月31日 - 勲五等双光旭日章[3][19]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章[3][20]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章・勲三等旭日中綬章・明治三十七八年従軍記章[3]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[3]
- 1915年(大正4年)
- 1919年(大正8年)
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等瑞宝章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[3][26]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[3][27]
- 1924年(大正13年)12月25日 - 旭日大綬章[3][28]
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)[3]
- 1931年(昭和6年)3月20日 - 帝都復興記念章[3][29]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[30]
- 1941年(昭和16年)10月11日 - 旭日桐花大綬章[3][17]
- 外国勲章佩用允許
- 1924年(大正13年)5月27日 - チリ共和国:有功第一等記章[3][31]
- 1934年(昭和9年)3月1日 - 満州帝国:大満洲国建国功労章[3]
- 1938年(昭和13年)7月9日 - 満州帝国:勲一位景雲章[3][32]
脚注
[編集]- ^ a b 『杵築市誌』 617頁
- ^ 『朝日新聞』 1941年10月12日付朝刊5面
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 「河合操」 アジア歴史資料センター Ref.A06051181000
- ^ 『官報』第1034号「叙任」1886年12月9日。
- ^ 『官報』第2571号「叙任及辞令」1892年1月28日。
- ^ 『官報』第3444号「叙任及辞令」1894年12月19日。
- ^ 『官報』第4981号「叙任及辞令」1900年2月12日。
- ^ 『官報』第6367号「叙任及辞令」1904年9月17日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第8290号「叙任及辞令」1911年2月13日。
- ^ 『官報』第934号「叙任及辞令」1915年9月11日。
- ^ 『官報』第1551号「叙任及辞令」1917年10月2日。
- ^ 『官報』第2460号「叙任及辞令」1920年10月13日。
- ^ 『官報』第3392号「叙任及辞令」1923年12月12日。
- ^ 『官報』第967号「叙任及辞令」1930年3月24日。
- ^ 『官報』第3073号「叙任及辞令」1937年4月2日。
- ^ a b 『官報』第4433号「叙任及辞令」1941年10月15日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1896年4月23日。
- ^ 『官報』第4744号「叙任及辞令」1899年4月28日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』第924号「叙任及辞令」1915年8月30日。
- ^ 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2026号「叙任及辞令」1919年5月8日。
- ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第3706号「叙任及辞令」1924年12月27日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第3529号「叙任及辞令」1924年5月30日。
- ^ 『官報』第3457号「叙任及辞令」1938年7月13日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 杵築市教育委員会内杵築市誌刊行会 『杵築市誌』 1968年。