河本重次郎
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河本 重次郎(こうもと じゅうじろう、安政6年8月16日(1859年9月12日) - 昭和13年(1938年)4月4日)は、日本の医学者、眼科医。帝国大学名誉教授、医学博士。日本近代眼科の父。号は光堂。
経歴
[編集]但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)出身。藩校稽古堂で池田草庵に学ぶ。13歳の時、和田垣謙三らと共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京。横浜在住の叔父・中江種造方からドイツ語の学校へ通う。
東京大学医学部入学。首席で卒業。卒業後は同学部外科学教室の助手を務める。
明治18年(1885年)にドイツ・ベルリン大学に留学。明治22年(1889年)東京大学医学部眼科学教室主任教授に着任。明治24年(1891年)、医学博士の学位を初めて眼科で受けた。33年間その職にあって、日本の眼科を先進国の水準に近づけ、さらに発展させた。大正11年(1922年)退官。墓所は多磨霊園。
家族
[編集]- 祖父・河本筑右衛門 - 豊岡藩士
- 父・河本齋助(1831年生) - 豊岡藩の京極家に仕えた従士。最初の妻は重次郎幼少期に没し、2番目の妻は7年後に離婚、3番目の妻に二男を儲ける。[3][4]
- 叔父・中江種造 - 父の実弟。上京した重次郎を支援した。
- 異母弟・河本清(1891年生) - 眼科医。岳父に正教会長司祭・三井道郎[5]
- 妻・河本香芽子(かめこ、1866-1956) - 明治~昭和期のキリスト教伝道者。出石藩士の植松左武郎の三女として生まれたが、幼少期に父が没し、同郷の洋学者・加藤正矩の養女となった。養父の弟に東京帝国大学総長の男爵加藤弘之、養父の実の娘に三宅やす子がいる。1884年に重次郎と結婚し、夫が留学で不在中に宣教師エドワード・ローゼイ・ミラーより受洗、夫の反対にあい、伝道活動を中断したが、夫が再度留学した1907年に活動再開し、日本基督教会婦人伝道会の理事、社長を務め、同教会初の女性長老の一人となった。植村正久の富士見教会の長老のほか、戸山教会、信濃町教会の長老も務めた。[6][7]
- 長女・露(1891年生) - 東京大学医学部名誉教授・三田村篤志郞(1887-1963)の妻。篤志郞は海軍軍医総監(少将)・三田村忠国の長男で、日本脳炎の研究で知られた病理学者。[8][9]
- 二女・富美子(文子とも、1896年生) - 斎藤勇 (イギリス文学者)の妻。勇は香芽子が長老を務めた富士見教会の信徒。子に斎藤光、斎藤眞。後年、勇は孫に殺害された(斎藤勇東大名誉教授惨殺事件)。[3]
- 三女・雪[3]
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1891年(明治24年)12月21日 - 正七位[10]
- 1898年(明治31年)12月10日 - 正五位[11]
- 1904年(明治37年)2月10日 - 従四位[12]
- 1914年(大正3年)4月10日 - 従三位[13]
- 勲章等
脚注
[編集]- ^ 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館、1936年、241頁。(ページ番号記載なし)
- ^ a b c 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館、1936年、242頁。(ページ番号記載なし)
- ^ a b c 河本重次郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 日本近代眼科の始まり─河本重次郎とその時代谷原秀信、熊本大学『眼科』Vol. 55. No. 13. 2013.
- ^ 河本重次郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 河本香芽子日本キリスト教女性史(人物編)
- ^ 河本香芽子歴史が眠る多磨霊園
- ^ 三田村忠国歴史が眠る多磨霊園
- ^ 三田村 篤志郎(読み)ミタムラ トクシロウコトバンク
- ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
- ^ 『官報』第4636号「叙任及辞令」1898年12月12日。
- ^ 『官報』第6181号「叙任及辞令」1904年2月12日。
- ^ 『官報』第508号「叙任及辞令」1914年4月11日。
- ^ 『官報』第5395号「叙任及辞令」1901年6月28日。
- ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
関連項目
[編集]- 美甘光太郎 - ドイツ系米国人医師ホッツが発表した逆さまつげ手術を参考に河本が始めた河本式手術法を応用し、世界初の美容整形の二重瞼手術を考案した