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波多野興滋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
波多野 興滋
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄2年9月26日1559年10月26日
改名 吉見興滋→波多野興滋
別名 通称:源右衛門尉
官位 備中守大和守
主君 大内義興義隆毛利隆元
氏族 清和源氏範頼吉見氏波多野氏
父母 父:吉見興成?
兵庫允
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波多野 興滋(はたの おきしげ)は、戦国時代武将大内氏毛利氏に仕えて奉行人として活躍。初めは吉見 興滋(よしみ おきしげ)と名乗った。

生涯

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出自

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初めは「吉見」の名字を名乗っており、大内義興から「興」の偏諱を与えられ、「興滋」と名乗る。

石見国国人である吉見氏の同族と考えられ[1]享禄3年(1530年)の大内義隆による防府天満宮造営の際に結縁衆に名を連ねた吉見興成が興滋と同じく「吉見源右衛門尉」を名乗っており[2]、興滋の父、あるいは、興滋の前名と考えられている。

大内義隆期

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大内氏の家臣たちの名を記した『大内殿有名衆』には「小奉行」の筆頭に「波多野備中守」の名で興滋が記されており[3]、大内義興、義隆、義長の三代に奉行人として仕えた。

天文9年(1540年6月15日、大内義隆の命により太宰府天満宮一領を寄進する[4]

天文10年(1541年8月5日、以前に龍崎隆輔青景隆著と共に安芸国洞雲寺に対して寺領である清末半名を安堵したことで銭30疋を拝領したことについて、洞雲寺に書状を送って感謝の意を伝える[5][6][7]

天文15年(1546年1月19日弘中隆兼に従っての出陣や在番で数年に渡り功があった神代兼任に対して神代鍋法師丸の所領替えの間に浮米10石を毎年与える旨の書状を杉隆宗と共に発給する[8]

天文16年(1547年)、大内義隆の命により戦況検分のための上使として備後国で合戦中の弘中隆兼のもとに派遣された際に、戦功を挙げた安芸国国人久芳途重対馬守への吹挙状を弘中隆兼から受け取り[9][10]、翌天文17年(1548年4月2日に久芳途重に対馬守の官途を認めた書状を青景隆著や陶隆満と共に連署として発給した[11]

天文18年(1549年)2月から5月にかけて、毛利元就毛利隆元家督相続、吉川元春吉川氏入嗣、小早川隆景竹原小早川氏入嗣を認めてもらった事に対して大内義隆に礼を述べるために吉川元春や小早川隆景を伴って周防国山口を訪問した際に、興滋は3月17日4月23日に元就への饗応を行っている[注釈 1][12]

大内義長期

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天文20年(1551年)の大寧寺の変で大内義隆が陶隆房(後の陶晴賢)らによって殺害されると、大内氏の家督を継いだ大内義長に仕えた。

天文22年(1553年4月19日橋爪鑑実大庭賢兼問田英胤と共に氷上山興隆寺の先例による段銭免除を認める御教書を発給する[13]

同年5月26日、尼子方に寝返った江田隆連攻めの際に戦功があった備後国の国人である湯浅元宗に対して無銘の太刀一腰を贈る旨の書状を小原隆言、青景隆著、陶隆満と共に連署として発給する[14]

天文23年(1554年)、名字を「吉見」から「波多野」に改める[1]。なお、同年の秋には陶晴賢が大寧寺の変以降反抗的であった石見国津和野の国人・吉見正頼への攻撃を開始している[15]

天文24年(1555年10月1日厳島の戦いで毛利軍に敗れた陶晴賢が自害し、毛利氏防長経略が始まると、陶晴賢という支柱を失った大内義長政権は義長を推戴する部将達の連合政権的性格を帯び、この時期に出された奉書は連署者が7名に増加しているが、その連署者に興滋も名を連ねている[16]。なお、興滋以外の連署者には弘中賢俊河屋隆通仁保隆慰青景隆著、兵庫頭某、橋爪鑑実が名を連ねる[16]

毛利氏家臣

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弘治3年(1557年4月3日に大内義長が自害して防長経略が完了すると、毛利氏による大内氏旧臣や寺社への知行安堵や知行宛行には毛利氏奉行人である児玉就忠粟屋元親国司元相赤川元保桂元忠や、旧大内氏奉行人である河屋隆通大庭賢兼岩正興致仁保隆慰吉田興種小原隆言と共に興滋も携わっている。

その具体例として、同年8月9日美和郷幸に対する長門国美祢郡嘉万別府内の1石5斗足の知行安堵[17]8月11日の長門国厚狭郡惣社八幡宮大宮司幡生右衛門尉に対する社領と大宮司職の安堵[18]、同年8月16日の100石の知行地を周布元兼へ打ち渡すように来原十郎左衛門尉に対して求める書状[19]、同年8月17日楊井武盛に対する長門国美祢郡秋吉別府内における30石の知行安堵[20]、同年8月20日安富千代寿丸(後の安富元命)に対する周防国佐波郡日坂根村30石足と長門国豊西郡富任別府20石足の地などの知行地安堵[21]、同年8月22日の周防国吉敷郡小郡泉福寺に対する吉敷郡椹野庄中領八幡宮宮司職の安堵[22][23]、同年8月24日能美重友に対する知行宛行状[24]、同年10月23日神西綱通に対する知行分地[25]などに興滋も名を連ねている。

弘治4年(1558年1月30日、防長経略後の一揆蜂起鎮圧に活躍した有馬世澄に対して、赤川元久、粟屋元親、児玉就忠、国司元相、赤川元保、桂元忠、大庭賢兼、吉田興種と共に知行地を安堵する[26][27]

弘治3年(1557年)8月から弘治4年(1558年)2月頃[28]、毛利氏領国全体の統治に当たる吉田奉行と、地域支配に当たる山口奉行との対立から生じる政務執行上の様々な弊害を憂いた人物[注釈 2]から相談を受けた興滋は、その解決策としては組織だけでは不十分とし、その組織が従うべき法度を定めることを提案している[30]

なお、同じく旧大内氏奉行人であった岩正興致も同様の趣旨の提案をしたと考えられており[30]、毛利氏家臣となった旧大内氏奉行人たちは毛利氏から領国経営について内々に諮問を受けて答申する、あるいは建議を行うといった政策立案の相談役のような役割を期待されていたと考えられている[30]

門司城番

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永禄2年(1559年)6月、防長両国の安定的確保を図るためにも豊前国企救郡の確保が不可欠と判断した毛利氏は、企救郡を本貫とする大内氏旧臣の貫元助らを帰国させ、その奮戦により大友氏から門司城を奪取。興滋が門司城の城番となり、嫡男の兵庫允須子大蔵丞らと共に守備に就いたが、同年9月26日田原親宏田原親賢らの率いる大友軍が門司城に攻め寄せると、城兵を督励して防戦するも衆寡敵せず門司城を奪還され、興滋は撤退中に嫡男・兵庫允や須子大蔵丞らと共に大友方の佐田隆居によって討ち取られた[31][32][33]

波多野興滋・兵庫允父子の忠戦を賞した毛利隆元は、同年10月15日に興滋の嫡男・兵庫允の子である亀寿丸が父・兵庫允の知行を相続することを認め[34]、長門国厚東郡須恵の内の10石を加増した[31]

その後再び毛利方によって門司城が奪還され、同年12月19日には興滋の後任の門司城城番には仁保隆慰が任じられると共に企救郡の一郡給人寺社家代官職に任じられている[35][36]

脚注

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注釈

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  1. ^ 興滋以外に山口を訪問した毛利元就を複数回饗応した人物は、陶隆房(後の陶晴賢)の4回、大内義隆と内藤興盛の3回、杉重矩被官である毛利少輔五郎の2回[12]
  2. ^ 典拠となる書状[29]が氏名未詳となっているため、興滋に相談を行った人物が誰であるかは不明[30]

出典

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  1. ^ a b 津和野町史 第1巻 1970, p. 487.
  2. ^ 『防長風土注進案』三田尻宰判古文書「防府天満宮古文書」第385号、享禄3年(1530年)10月14日付け、大願主従五位上多々良朝臣義隆棟札
  3. ^ 大内氏実録 1974, p. 375.
  4. ^ 『太宰府神社文書』天文9年(1540年)6月15日付け、小鳥居殿宛て、吉見源右衛門尉興滋寄進状。
  5. ^ 『洞雲寺文書』、年不詳12月17日付け、洞雲寺監寺禅師宛て、(吉見)興滋・(龍崎)隆輔・(青景)隆著連署書状。
  6. ^ 『洞雲寺文書』、天文10年(1541年)8月5日付け、洞雲寺衣鉢侍者禅師宛て、(吉見)興滋書状。
  7. ^ 曹洞宗古文書 下巻 1962, p. 500.
  8. ^ 『閥閲録』巻113「神代六左衛門」第5号、天文15年(1546年)1月29日付け、神代治部丞(兼任)殿宛て、杉兵庫助隆宗・吉見備中守興滋連署書状。
  9. ^ 藤井崇 2019, p. 250.
  10. ^ 『閥閲録』巻145「久芳庄右衛門」第20号、天文17年(1548年)比定3月7日付け、久芳右京進(途重)殿宛て、(吉見)興滋・(青景)隆著・(陶)隆満連署状。
  11. ^ 『閥閲録』巻145「久芳庄右衛門」第21号、天文17年(1548年)比定4月2日付け、久芳對馬守(途重)殿宛て、(吉見)興滋・(青景)隆著・(陶)隆満連署状。
  12. ^ a b 山口県史料 中世編 上 1979, p. 229.
  13. ^ 『閥閲録』附録 防長寺社證文「氷上山興隆寺 三」第129号、天文22年(1553年)4月19日付け、氷上山別當御坊宛て、美濃守(橋爪鑑実)・圖書允(大庭賢兼)・備中守(吉見興滋)・大藏少輔(問田英胤)連署御教書。
  14. ^ 『閥閲録』巻104「湯淺權兵衛」第129号、天文22年(1553年)比定5月26日付け、湯淺五郎次郎(元宗)殿宛て、(吉見)興滋・(小原)隆言・(青景)隆著・(陶)隆満連署書状。
  15. ^ 山本浩樹 2007, p. 77.
  16. ^ a b 大分県史 中世篇3 1987, p. 86.
  17. ^ 『閥閲録』巻81「三輪四郎兵衛」第7号、弘治3年(1557年)8月11日付け、厚狭郡惣社八幡宮大宮司 幡生右衛門尉殿宛て、右京亮(粟屋元親)・因幡守(河屋隆通)・図書允(大庭賢兼)・伊豆守(岩正興致)・大和守(波多野興滋)・右衛門大夫(仁保隆慰)・若狭守(吉田興種)・安芸守(小原隆言)・右京亮(国司元相)・右衛門尉(児玉就忠)・左京亮(赤川元保)・左衛門大夫(桂元忠)連署奉書。
  18. ^ 『防長風土注進案』、弘治3年(1557年)8月9日付け、美和四郎(郷幸)殿宛て、左衛門大夫(桂元忠)・因幡守(河屋隆通)・圖書允(大庭賢兼)・伊豆守(岩正興致)・大和守(波多野興滋)・若狭守(吉田興種)・安芸守(小原隆言)・右衛門大夫(仁保隆慰)・右京亮(粟屋元親)・右衛門尉(児玉就忠)・右京亮(国司元相)・左京亮(赤川元保)連署奉書。
  19. ^ 『閥閲録』巻121「周布吉兵衛」第191号、弘治3年(1557年)8月16日付け、来原十郎左衛門尉殿宛て、安藝守(小原隆言)・因幡守(河屋隆通)・圖書允(大庭賢兼)・伊豆守(岩正興致)・大和守(波多野興滋)・右衛門尉(児玉就忠)・若狭守(吉田興種)・右京亮(粟屋元親)・右衛門大夫(仁保隆慰)・右京亮(国司元相)・左京亮(赤川元保)・左衛門大夫(桂元忠)連署奉書。
  20. ^ 『閥閲録』巻106「楊井神平」第7号、弘治3年(1557年)8月17日付け、楊井彌七(武盛)宛て左京亮(赤川元保)・圖書允(大庭賢兼)・因幡守(河屋隆通)・大和守(波多野興滋)・伊豆守(岩正興致)・安藝守(小原隆言)・若狭守(吉田興種)・右衛門大夫(仁保隆慰)・右京亮(粟屋元親)・右衛門尉(児玉就忠)・右京亮(国司元相)・左衛門大夫(桂元忠)連署奉書。
  21. ^ 『安富家証文』第62号、弘治3年(1557年)8月20日付け、安富千代寿丸(元命)殿宛て、右衛門尉(児玉就忠)・因幡守(河屋隆通)・図書允(大庭賢兼)・伊豆守(岩正興致)・大和守(波多野興滋)・右衛門大夫(仁保隆慰)・若狭守(吉田興種)・安芸守(小原隆言)・右京亮(粟屋元親)・右京亮(国司元相)・左京亮(赤川元保)・左衛門大夫(桂元忠)連署奉書写。
  22. ^ 『防長風土注進案』小郡宰判 第1「中下郷」、弘治3年(1557年)8月22日付け、小郡中領泉福寺宛て、左京亮(赤川元保)・因幡守(河屋隆通)・圖書允(大庭賢兼)・大和守(波多野興滋)・伊豆守(岩正興致)・安藝守(小原隆言)・若狭守(吉田興種)・右衛門大夫(仁保隆慰)・右京亮(粟屋元親)・右衛門尉(児玉就忠)・右京亮(国司元相)・左衛門大夫(桂元忠)連署奉書。
  23. ^ 防長風土注進案 第14巻 1983, p. 29.
  24. ^ 『閥閲録』巻157「能美彦左衛門」第1号、弘治3年(1557年)8月24日付、能美佐渡守(重友)宛て左衛門大夫(桂元忠)・因幡守(河屋隆通)・圖書允(大庭賢兼)・伊豆守(岩正興致)・大和守(波多野興滋)・若狭守(吉田興種)・安藝守(小原隆言)・右衛門大夫(仁保隆慰)・右京亮(児玉就忠)・右京亮(国司元相)・左京亮(赤川元保)連署状。
  25. ^ 『閥閲録』巻162「まへ大津裁判(神西源次郎)」第3号、弘治3年(1557年)10月23日付け、神西丹後守(綱通)宛て大和守(波多野興滋)・安藝守(小原隆言)・伊豆守(岩正興致)・散位・右京亮(粟屋元親)・右衛門尉(児玉就忠)・右京亮(国司元相)・左京亮(赤川元保)・左衛門大夫(桂元忠)連署奉書。
  26. ^ 『防長風土注進案』山口街志之四 寺院下 眞宗、弘治4年(1558年)1月30日付け、有馬與四郎(世澄)殿宛て、左衛門尉(赤川元久)・圖書允(大庭賢兼)・大和守(波多野興滋)・若狭守(吉田興種)・左兵衛尉・右京亮(粟屋元親)・右衛門尉(児玉就忠)・右京亮(国司元相)・左京亮(赤川元保)・左衛門大夫(桂元忠)連署奉書。
  27. ^ 防長風土注進案 第13巻 1983, pp. 355–356.
  28. ^ 和田秀作 1990, p. 20.
  29. ^ 『毛利家文書』第857号、年月日不詳、氏名未詳書状。
  30. ^ a b c d 和田秀作 1990, p. 19.
  31. ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 522.
  32. ^ 和田秀作 1990, pp. 19–20.
  33. ^ 山本浩樹 2007, p. 142.
  34. ^ 『閥閲録』巻157「波多野清左衛門」第1号、永禄2年(1559年)10月15日付け、波多野龜壽丸殿宛て、毛利隆元書状。
  35. ^ 大分県史 中世篇3 1987, pp. 103–104.
  36. ^ 『閥閲録』巻60「仁保太左衛門」第15号、永禄2年(1559年)比定12月19日付、仁保右衛門大夫(隆慰)宛て毛利元就・隆元連署状写。

参考文献

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