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淡海乃海 水面が揺れる時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
淡海乃海 水面が揺れる時
ジャンル 歴史改変SF
なろう系
小説
著者 イスラーフィール
出版社 TOブックス
掲載サイト 小説家になろう
刊行期間 2016年03月21日 -
巻数 既刊16巻、外伝1巻(2024年6月現在)
話数 254話(2024年6月現在)
漫画
原作・原案など イスラーフィール
作画 もとむらえり
出版社 TOブックス
掲載サイト コロナEX
レーベル comicコロナ
発表期間 2019年03月25日 -
巻数 既刊10巻(2024年6月現在)
テンプレート - ノート
プロジェクト 漫画
ポータル 文学漫画

淡海乃海 水面が揺れる時』(あふみのうみ みなもがゆれるとき)は、イスラーフィールによる日本歴史改変SF。 SFジャンルの歴史改変SFの一つで、自身が転生前に過ごした世界の過去に転生し、歴史や科学の知識を元に歴史を改変していく物語。

  • 2016年03月21日、小説家になろうにて投稿を開始。
  • 2017年11月10日、TOブックスから書籍化。
  • 2019年03月25日、TOブックスからコミカライズ刊行開始。
  • 2020年03月25日、初の舞台『淡海乃海ー声無き者の歌をこそ聴けー』が上演。

概要

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朽木元綱として誕生した転生者が歴史や現代の知識を使いつつ、戦国時代を平定する話。
竹若丸と呼ばれる自分が後の朽木元綱だと判り、当初は史実より上手く立ち回って江戸時代に十万石ぐらいの大名として存続することを目標とした。しかし二歳にして父を喪い、生き残るために戦いに勝ち続けた結果、自身が天下統一の道を歩むことになる。

あらすじ

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若竹丸

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天文十九年(1550年)十月、敗戦によるの戦死という危機的状況で二歳にして朽木家当主となった主人公は、祖父の後見と将軍足利義藤の来訪という幸運で切抜けて以降、前世知識による「富国強兵」「殖産興業」政策を進める。
その政策による効果が出てきた頃に将軍が京に帰還、周囲の勢力(高島越中)との最初の抗争が発生する。兵力的に劣勢な中で、当時の最新兵器である鉄砲と地理的な特性を活用して撃退、策略を併用して近江高島郡の大半をその手中に治める。
急拡大したことで守護大名六角義賢に注目され、駆け引きの結果六角からの離反を明らかとしていた浅井氏との戦いとなり、湖西から湖北へと進出する。

弥五郎

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永禄四年(1561年)、六角家との関係強化のため義賢の養女(重臣平井定武の娘、浅井長政の先妻)を娶るに際して、元服して弥五郎基綱と改める。
野良田の戦いにも参陣して浅井長政を始めとする有力諸将を討ち取る殊勲を挙げ、最終的に浅井家を滅ぼす。これにより六角家との関係は安定したかに思えたが、六角家嫡男六角義治との確執により、関係は流動化していく。さらに義治の策で六角家が隣国美濃不破に侵攻して美濃一色氏との抗争を始め、六角領内の不満が高まっていった。
遂に六角家で大規模な内紛(お家騒動、史実の観音寺騒動とはやや異なる)が発生すると、帰属を希望する旧浅井領を受け入れるとともに、以前から浅井家の後ろ盾として近江に介入していた越前朝倉家加賀一向一揆との戦いに手一杯な状況を利用して、敦賀を攻めとる。これにより日本海での交易の拠点を手に入れる。また美濃と接した事で、斎藤義龍と抗争中の尾張織田信長と緩い同盟関係を結ぶ。
その間にも六角家の騒動は続き、最終的に父弟と重臣を殺害した義治は廃され、将軍家の後見により細川晴元の子輝頼が家督を継ぐ。しかし、従来からの家臣団と新当主に付き添ってきた幕臣との軋轢が新たな争点となり、さらに朽木領になった旧浅井領を巡って、輝頼が不満を漏らして新たな火種が生まれる。
永禄7年(1564年)、当時の天下人三好長慶が逝去。畿内を中心に動揺が広がり、丹波で反三好の挙兵が成功、同じころ越前では朝倉家が滅亡する(朽木領敦賀が一向宗と接する)。こうした中で永禄の変が起こり、将軍義輝が三好家に殺され、将軍家を後ろ盾とした六角輝頼はさらに弱体化していく。また畿内では河内紀伊の守護畠山高政が三好家に対して挙兵するなど、戦乱は拡大の一途をたどっていく。
主人公は敦賀で一向宗を撃退すると領内の一向宗(堅田)を鎮圧、更に介入してきた比叡山焼き討ちを決行、それまで将軍家や六角家との縁戚関係から手を出せなかった若狭武田氏を攻め滅ぼす。

大膳大夫

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畿内が動乱で揺れ動く中、長年断っていた朝廷からの打診を受け入れ、永禄九年(1566年)に従四位下大膳大夫に叙任される。
そして将軍候補となった義輝の弟足利義昭の策による六角・朽木・斎藤・織田の4家連合軍が結成され、三好家を打倒するための上洛戦が始まる。この連合軍は早期に六角と斎藤が離反して瓦解するが、それを予期していた朽木軍は山科で三好軍との決戦(第一次山科合戦)に勝利し、一転軍を返して六角家を滅ぼす(織田信長は斎藤軍を撃破)。これにより近江全域が朽木領となり、さらに六角家の影響下にあった北伊勢にも勢力を伸ばすことになる。
主人公は伊勢攻略と対一向宗を同時に進める。まず軍を二分して、一軍で北伊勢から侵攻して難敵長島一向一揆北畠家の影響下にある南伊勢を除き制圧。いったん軍を戻して別軍を率い、海路を使って敦賀に侵攻してきた加賀一向一揆勢の背後に上陸して挟撃で殲滅。さらに最初の軍を率いて伊勢に再侵攻して、油断していた南伊勢の北畠具教を下して伊勢をほぼ統一する。
朽木を取り込みたい足利義昭の誘いを躱しつつ、次は以前より友好関係を継続していた越後上杉輝虎と共同で北陸平定戦を開始、長年抗争してきた一向宗を北陸から排除することに成功する。その後、懸案となっていた長島一向一揆も制圧することに成功する。これにより織田家が美濃を制圧して今川家遠江駿河)への侵攻を開始すると、朽木領の東側は同盟国(上杉・織田)で占められ、その目は必然的に西を向く事になる。
その西(畿内)では、分裂した三好家の一方大和三好義継派(松永久秀内藤宗勝)と紀伊の畠山高国が同盟し、優勢な三好実休派(安宅冬康三好三人衆)に抵抗する情勢となっていた。また義継派は足利義昭を、実休派は平島公方家の足利義栄を推して次期将軍位を競う間でもあったが、実休派の圧力により長島一向一揆攻略中に(病没した義栄の弟)足利義助が第十四代将軍に就任する。
主人公は周囲から前将軍義輝の忠臣と見られていたため、自然と弟の義昭支持派と見做されていた。それら風評に義昭が便乗して、朽木家の上洛は当人の意思を無視して既定事実化していく。この状況には主人公も逆らい難く、遂に上洛戦を決意、山科で実休派を撃破(第二次山科合戦)して畿内を制圧する。ただし、実休派は余力を残しつつ本拠地の四国(阿波讃岐淡路)に退き、捲土重来を期すことになる。また、将軍義助も四国の平島公方家に退去する。
事実上の天下人となった主人公であるが、義昭との関係は良好とは言えず、義昭が要求する義助の将軍解任も「好ましからず」として自主的な返上を促す穏健策を主張する。また上洛戦での恩賞を辞退して近江に帰る。畿内を味方で固めた義昭だったが、朽木不在を好機と見た実休派が急襲を仕掛けて窮地に陥る。この襲撃は近江から急派された朽木軍により阻まれ、また四国へと退去したが、改めて摂津が朽木領となり、西方への拠点を得る。また、前の政所執事伊勢貞孝を復職させ、幕府の実権を掌握していく。
主人公は旧知の三好長逸を通じて実休派との関係改善を進め、遂に義助の将軍位返上と義昭の将軍即位を成し遂げる。しかし義昭との不仲は続き、勅命による丹波にある禁裏御料(山国庄、小野庄)奪還を大義名分として摂津と若狭から丹波に侵攻して御料を奪還するが、その過程で不穏な動きがあったとして丹後に侵攻して、義昭派であった一色氏を滅ぼす。

近江少将

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永禄十六年(1573年)、丹後を制圧して戻った主人公は、御料奪還の功績により正四位下左近衛権少将(四位少将)に叙任(越階)される。
その後、丹波に残存していた義昭派(波多野氏)とその同盟者(赤井氏)を威圧と調略で自壊させ丹波全土を掌握、播磨英賀)の一向宗を睨みつつ、一向宗本願寺派の総本山石山本願寺への圧力を強める。そして石山本願寺に居た長島一向一揆の残党(証意)が恭順すると、本願寺攻めを本格化させる。5万の大軍で包囲された石山本願寺は”朝廷の御扱い”の和睦で放棄され、顕如は西国へと落ちていく。
元亀三年(1575年)に「関東管領上杉輝虎殿、中風にて倒れる」の急報が届く。輝虎は何とか一命は取り留めるが半身に麻痺が残り、後継者となった上杉喜平次(景勝)の立場を確立するため、主人公の長女(竹姫)との婚儀が急遽決定する。
元亀四年(1576年)、5万を動員して播磨に侵攻して瞬く間に制圧するが、備前宇喜多直家の史実での事績を知る主人公は味方にする事を嫌い、いったん軍を収める。そして宇喜多と対立する備中三村元親と密かに通じるが、元親は宇喜多直家に暗殺され、備中は毛利家が制圧する。それに対して主人公は山陽・山陰の両面で謀略戦を仕掛け、諸将の毛利家への疑心暗鬼を醸成していく。
3万を動員した竹姫の輿入れの行列が近江を発し越後に向かう中、将軍義昭が京で挙兵する。主人公はその裏に毛利家の謀略を感じ取り、対毛利の謀略戦を強化して同時に宇喜多直家を追い詰めていく。

近江中将

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将軍義昭を西国に追い払った元亀四年(1576年)九月下旬、従三位左近衛中将に叙任される。
元亀五年(1577年)、織田・徳川連合軍により、甲斐武田家滅亡。続いて備前で大規模な内紛が発生して宇喜多直家が死亡、遂に朽木と毛利が直接対峙する事になる。
天正二年(1578年)、対毛利戦を優勢に進める主人公の下に、織田信長が「飲水の病」(現在の糖尿病)との報告が入る。後背の同盟国(織田家)が安定しているうちに九州制圧までを終わらせたい主人公は、備前・美作を制圧すると史実に倣い備中高松城水攻めを敢行する。この戦いで毛利家は屈服し、朽木家に臣従を誓った。

亜相

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天正二年(1578年)九月下旬、参議(宰相)に昇進、その十日後に中納言(黄門)に昇進する。また翌年の天正三年(1579年)二月、右近衛大将に昇進して、一か月ほどで辞任。同年七月、権大納言(亜相)に昇進する。
天正三年(1579年)八月上旬、相模北条氏小田原城を包囲していた織田信長が戦死(享年46)。陣中で卒中の発作を起こして昏睡状態となり、それを察知した北条軍の奇襲により大敗。また敗走中に嫡男織田信忠も戦死。十二月、旧領回復のため伊豆に出兵した隙を徳川に突かれて、小田原落城(北条家・今川家滅亡)
天正四年(1580年)、土佐一条家に内紛が発生して出兵する。朽木家は土佐一条家を中継地として琉球と交易を行っていたため、騒動の元となった一条兼定長宗我部元親を引退させ、それぞれの嫡男が朽木家の家臣として家を継ぐことになる。また琉球との交易独占を目論む薩摩島津家を牽制するため、豊前大友宗麟肥後龍造寺隆信の和睦を斡旋する。
同年十月上旬、主人公の嫡男堅綱率いる朽木軍による美濃侵攻が始まり、十一月下旬に制圧。

前の内府

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天正五年(1581年)一月、従二位内大臣に補任される(一か月ほどで辞任、前の内府)。

朽木

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朽木谷
近江高島郡(現在の高島市)に属し、安曇川上流にある丹波高地東端の花折断層と比良山地に挟まれ谷にある小盆地
若狭小浜から京都に通じる山間の谷を走る街道(鯖街道)に位置しており、昔から京都・若狭と繋がりがある。また高島郡の中心地は琵琶湖の湖畔にあり、朽木谷とは安曇川沿いの険しい谷道によって繋がる。そのため京都と直結していながら、周囲に対しては天然の要害の地となっている。
朽木氏
朽木家は近江でも琵琶湖からやや隔離された地理的な要因と、血統も佐々木源氏庶流高島氏に属する事から、近江の主要勢力(六角氏京極氏)への帰属意識が薄い家である。
主人公の曾祖父朽木材秀は第10代将軍足利義材(後の義稙)に出仕して偏諱(材)を受け、祖父民部少輔稙綱(稙は義稙からの偏諱)の代には第11代将軍足利義維との抗争に敗れた第12代将軍足利義晴を朽木谷に保護し、大永8年(享禄元年、1528年)から享禄4年(1531年)の2年半は朽木谷に幕府が置かれた。稙綱は奉公衆から後に内談衆に加わり、嫡男以外の男子を幕府に出仕させるなど、幕府直臣としての意識が強かった。
作中では義晴や子の第13代将軍足利義藤(後の義輝)は、その後も度々朽木に避難することがあり、主人公が生まれる少し前にも朽木に滞在していたことから、後に主人公に「将軍のご落胤」説が出る事になった、としている。


脚注

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編註

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出典

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外部リンク

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