渡左近
渡 左近(わたり さこん、1893年(明治26年)7月20日[1][2] - 1951年(昭和26年)4月1日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]東京府出身[1][2][3]。元老院議官・渡正元の八男として生まれる[1]。開成中学校(現開成中学校・高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第31連隊付となる[1][4]。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業し近衛歩兵第1連隊中隊長に就任[1][2][3]。
1928年(昭和3年)2月、参謀本部付勤務となり、以後、参謀本部員(支那班)、参謀本部付(支那研究員)を務め、1930年(昭和5年)8月、歩兵少佐に昇進[1]。1930年(昭和6年)12月、歩兵第46連隊大隊長に就任し、参謀本部員、陸大教官、参謀本部付(漢口駐在)を務め、1935年(昭和10年)8月、歩兵中佐に進んだ[1]。1936年(昭和11年)12月、大本営参謀(第7課長)に就任し、1938年(昭和13年)3月、歩兵大佐に昇進し参謀本部付となる[1][3]。同年6月、参謀本部支那課長に就任[1][3]。
1939年(昭和14年)3月、支那駐屯歩兵第3連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1940年(昭和15年)8月、第13軍参謀に転じ、1941年(昭和16年)8月、陸軍少将に進級し留守第5師団司令部付となる[1][2][3]。同年10月、第1歩兵団長に就任し満州に赴任[1][2][3]。1943年(昭和18年)1月、独立混成第23旅団長に転じ中国戦線に出征[1][2][3]。1944年(昭和19年)5月、独立混成第29旅団長に就任しタイに赴任[1][2][3]。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。同年7月、第15師団長に親補され、タイのカンチャナブリで終戦を迎えた[1][2][3]。
戦後、BC級戦犯容疑で逮捕され、1947年(昭和22年)5月、重労働5年の判決を受けた[1]。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[5]。1950年(昭和25年)6月に仮釈放された[1]。
親族
[編集]- 兄 渡干城(東京府士族、 武州銀行株式会社東京支店支配人)
- 兄 渡久雄(陸軍中将)[1]
- 弟 渡正監(内務官僚)
- 義父 川瀬亨(陸軍中将)[1]
- 伊達宗淳(華族、男爵)
- 浅田德則(貴族院勅撰議員)
- 笠井庄兵衞(東京府会議員,東京市会議員)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本陸軍将官辞典』816頁では4月11日。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 親族である渡干城や笠井庄兵衞らとの関係について。http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-24969