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湯浅八郎

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湯浅八郎

湯浅 八郎(ゆあさ はちろう、1890年明治23年)4月29日 - 1981年昭和56年)8月15日)は、日本昆虫学者・教育者キリスト者。第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。湯浅治郎の子。

経歴

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1890年(明治23年)、東京市赤坂に生まれた。父は同志社理事・群馬県会議長・衆議院議員を務めた実業家政治家である湯浅治郎、母は徳富蘇峰徳富蘆花兄弟の姉である初子である。湯浅家は当時の日本ではまだ珍しい、クリスチャン・ホームであった(父方の叔父に聖書学者として知られる湯浅吉郎がいる)。少年期は主として京都で過ごした。

1902年(明治35年)に同志社普通学校に入学、1908年(明治41年)に卒業し、米国に渡った。3年間カリフォルニア州リヴィングストンの開拓農場で労働に従事した後、1911年(明治44年)にカンザス農科大学へ入学した。同大学卒業後、イリノイ大学大学院に進学し、Ph.D.(博士号)を取得した。

1924年(大正13年)、新設の京都帝国大学農学部教授に招聘されて帰国する。当時としてはリベラルな教育を行い、今西錦司森下正明内田俊郎らを育てた。1926年(昭和元年)、東京帝国大学 理学博士。論文の題目は「A classification of the Larvae of the Tenthredinoidea(ハバラ亜目の幼蟲の分類)」。1933年(昭和8年)滝川事件が勃発、農学部評議員として瀧川幸辰の免職に反対する法学部の立場を支持したため、その思想的立場を当時の日本社会に対して明らかにすることとなった。

1934年(昭和9年)3月、同志社総長事務取扱となり、翌年2月正式に第10代総長となった。戦時色が濃くなり、キリスト教主義学校に対する圧力が強まる中、難局に対処する。新島襄以来の同志社独自の教学精神を貫こうとした湯浅は、軍国主義に傾倒する当時の政府・軍部と対立した。さらに同志社岩倉校地の購入をきっかけとした学内紛争や、神棚事件国体明徴論文掲載拒否事件、勅語誤読事件[1]、チャペル籠城事件[2]など、配属将校や同志社内外の右翼大日本生産党洛北青年同盟など)を巻き込む紛争に発展し、1937年(昭和12年)12月に総長職を辞した。

1938年(昭和13年)、インドマドラスで行われた世界キリスト教宣教会議に出席する。1939年(昭和14年)、米国に渡り、宣教会議でのメッセージを伝えるために全米各地で講演を行った。1941年(昭和16年)4月、リバーサイド日米キリスト者会議で米国のキリスト教会に「アメリカ教会への感謝状」を贈った。日米開戦後も米国に残り、居留地に拘留された在留邦人や日系人を激励して回った。終戦後、日本に戻った。

1947年(昭和22年)、再び請われて同志社第12代総長に就任し、同志社大学をはじめとする、戦後の同志社諸校の土台作りに尽力した。1950年(昭和25年)、同志社総長を退任して国際基督教大学設立準備に携わり、のち同大学初代学長に就任、同大学の礎を築く上で重要な役割を果たした。1961年(昭和36年)10月、同職を退任する[3]。退任後は長く同大学理事長の職にあった。1977年(昭和52年)にキリスト教功労者を受賞[4]。理学博士(東京帝国大学)。同志社大学名誉文化博士。国際基督教大学名誉総長および名誉人文学博士。

家族

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生活信条

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湯浅は自身の生活信条を表す言葉として、次のような言葉を残した。

生きることは愛すること

愛することは理解すること

理解することは赦すこと

赦すことは赦されること

赦されることは救われること

参考文献

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脚注

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  1. ^ 湯浅が教育勅語の「御名御璽」を「オン名」と誤読したことが問題視された事件(『同志社九十年小史』 118頁)。
  2. ^ 「同志社予科の学生突如籠城 扉を閉じて外部と遮断」(『大阪毎日新聞』 1937年7月6日)
  3. ^ 沿革|国際基督教大学
  4. ^ 日本キリスト教文化協会 顕彰者一覧※2022年10月23日閲覧

関連項目

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外部リンク

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先代
新設
国際基督教大学学長
1953年 - 1961年
次代
鵜飼信成
先代
佐々木順三
基督教学校同盟会長
1955年 - 1960年
次代
大木金次郎