湯浅宗貞
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永正15年(1518年) |
死没 | 慶長10年4月8日(1605年5月25日) |
改名 | 虎千代(幼名)、宗貞、理斎(法名)[1] |
別名 | 通称:五郎兵衛尉[2] |
戒名 | 大円院殿前越州太守清翁浄心大居士[3] |
官位 | 越前守[4] |
氏族 | 丹波湯浅氏 |
父母 | 父:湯浅宗正、母:内藤貞正の娘 |
兄弟 | 宗貞、政常[3]、小林宗家[3]、吉田貞政[3]、細川藤孝室 |
妻 | 小林信久の娘 |
子 |
某、宗康 養子:宗清 |
湯浅 宗貞(ゆあさ むねさだ)は、戦国時代から江戸時代初めにかけての武将。丹波国世木城[注釈 1]主。
出自
[編集]丹波湯浅氏は、紀伊国有田郡湯浅荘を本拠とした武士団・湯浅党に出自を持つ[6]。湯浅宗重の子である宗光の末裔・宗朝が、明徳4年(1393年)に丹波国船井郡世木荘を与えられたことにより始まった[6]。
生涯
[編集]永正15年(1518年)に、湯浅宗正の嫡子として生まれたという[4]。
天文14年(1545年)、細川晴元と争う内藤国貞を世木城に匿ったとされ[7]、この年の7月、世木城は落城した(『細川両家記』)[5]。
湯浅家の由緒書によると、天正8年(1580年)8月に細川藤孝が丹後へ侵攻した際に、宗貞は一族らを引き連れて加勢したという[1]。その後、10月に宗貞は薙髪した[3]。
また、宗貞は元亀元年(1570年)に帰農したともされる[8]。
慶長10年(1605年)4月8日、死去した[3]。享年88歳[3]。
系譜
[編集]- 父:湯浅宗正(1477–1542[9]) - 通称は五郎、右馬允、若狭守[9]。細川勝之の子で、母の兄である湯浅宗武の跡を継いだ[9]。初名は宗国[9]。晩年、養意軒宗福と号した[9]。
- 母:内藤貞正の娘[10]
- 室:小林信久の娘[3]
- 養子
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 船井史談会 1957, pp. 5–6.
- ^ 船井史談会 1957, p. 5; 日吉町誌編さん委員会 1987, p. 102.
- ^ a b c d e f g h 船井史談会 1957, p. 6.
- ^ a b 船井史談会 1957, p. 5.
- ^ a b 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年、526、604頁。ISBN 978-4-642-02950-6。
- ^ a b 日吉町誌編さん委員会 1987, pp. 517–520.
- ^ 日吉町誌編さん委員会 1987, pp. 86, 102.
- ^ 日吉町誌編さん委員会 1987, p. 93.
- ^ a b c d e 船井史談会 1957, pp. 4–5.
- ^ 日吉町誌編さん委員会 1987, p. 87.
- ^ a b c d 船井史談会 1957, p. 7.
- ^ 船井史談会 1957, pp. 7–8.
- ^ 船井史談会 1957, pp. 7, 16.
- ^ a b 船井史談会 1957, p. 7; 日吉町誌編さん委員会 1987, pp. 87, 104.
- ^ 日吉町誌編さん委員会 1987, p. 87, 522.
- ^ 日吉町誌編さん委員会 1987, pp. 523–529.