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湯浅宗貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
湯浅宗貞
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永正15年(1518年
死没 慶長10年4月8日1605年5月25日
改名 虎千代(幼名)、宗貞、理斎(法名[1]
別名 通称:五郎兵衛尉[2]
戒名 大円院殿前越州太守清翁浄心大居士[3]
官位 越前[4]
氏族 丹波湯浅氏
父母 父:湯浅宗正、母:内藤貞正の娘
兄弟 宗貞政常[3]小林宗家[3]吉田貞政[3]細川藤孝
小林信久の娘
某、宗康
養子:宗清
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湯浅 宗貞(ゆあさ むねさだ)は、戦国時代から江戸時代初めにかけての武将丹波国世木城[注釈 1]主。

出自

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丹波湯浅氏は、紀伊国有田郡湯浅荘を本拠とした武士団湯浅党に出自を持つ[6]湯浅宗重の子である宗光の末裔・宗朝が、明徳4年(1393年)に丹波国船井郡世木荘を与えられたことにより始まった[6]

生涯

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永正15年(1518年)に、湯浅宗正の嫡子として生まれたという[4]

天文14年(1545年)、細川晴元と争う内藤国貞を世木城に匿ったとされ[7]、この年の7月、世木城は落城した(『細川両家記』)[5]

湯浅家の由緒書によると、天正8年(1580年)8月に細川藤孝丹後へ侵攻した際に、宗貞は一族らを引き連れて加勢したという[1]。その後、10月に宗貞は薙髪した[3]

また、宗貞は元亀元年(1570年)に帰農したともされる[8]

慶長10年(1605年)4月8日、死去した[3]。享年88歳[3]

系譜

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b 船井史談会 1957, pp. 5–6.
  2. ^ 船井史談会 1957, p. 5; 日吉町誌編さん委員会 1987, p. 102.
  3. ^ a b c d e f g h 船井史談会 1957, p. 6.
  4. ^ a b 船井史談会 1957, p. 5.
  5. ^ a b 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年、526、604頁。ISBN 978-4-642-02950-6 
  6. ^ a b 日吉町誌編さん委員会 1987, pp. 517–520.
  7. ^ 日吉町誌編さん委員会 1987, pp. 86, 102.
  8. ^ 日吉町誌編さん委員会 1987, p. 93.
  9. ^ a b c d e 船井史談会 1957, pp. 4–5.
  10. ^ 日吉町誌編さん委員会 1987, p. 87.
  11. ^ a b c d 船井史談会 1957, p. 7.
  12. ^ 船井史談会 1957, pp. 7–8.
  13. ^ 船井史談会 1957, pp. 7, 16.
  14. ^ a b 船井史談会 1957, p. 7; 日吉町誌編さん委員会 1987, pp. 87, 104.
  15. ^ 日吉町誌編さん委員会 1987, p. 87, 522.
  16. ^ 日吉町誌編さん委員会 1987, pp. 523–529.

参考文献

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  • 日吉町誌編さん委員会 編『日吉町誌 上巻』京都府船井郡日吉町、1987年。全国書誌番号:87049740 
  • 船井史談会 編『園部藩別格上席待遇の郷士 湯浅五郎兵衛家由緒書』船井史談会・旧世木村誌編纂委員会、1957年。全国書誌番号:57005528