源五郎丸洋
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 佐賀県杵島郡江北町 |
生年月日 | 1964年1月15日(60歳) |
身長 体重 |
179 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1981年 ドラフト1位 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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源五郎丸 洋(げんごろうまる ひろし、1964年1月15日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)[1]。
来歴・人物
[編集]東京都江東区生まれ[1]。1978年5月、父の転勤で佐賀県に転居する。大分県立日田林工高等学校では2年生の時、1980年秋季九州大会で準々決勝に進むが、築上中部高に敗退。翌1981年春季九州大会では決勝で興南高を完封し優勝を飾っている。興南高のエースは竹下浩二であったがこの試合には登板しなかった。同年夏は県予選で敗れ甲子園には出場できなかったが、右の本格派として知られた。
1981年のドラフトで阪神タイガースは電電九州の右田一彦投手を1位指名するが、抽選で右田は横浜大洋ホエールズに交渉権を獲得され、外れ1位として指名された[2]。1位指名であったため、セレクションを受けていた早稲田大学へ進学せずに[3]、入団した。美しいフォームで入団当初は「村山実2世」と呼ばれ、将来を嘱望された。
1982年のキャンプ打ち上げ後の紅白戦で実戦登板し、掛布雅之らを抑える好投を見せるが、翌日のベースランニング中に右大腿二頭筋断裂で全治2カ月の重傷を負う[4]。この日の源五郎丸は卒業式出席のために帰省中であったが、有料の紅白戦が行われることになったために急遽、呼び出された上で起きた悲劇であった[5]。その後は結局一軍に一度も上がることなく、1986年に現役引退した[6][7]。
成長期に体に負担がかかるフォームであったことが原因だったとも言われているが、阪神OBの評論家・江本孟紀は「体も出来あがっていないのに、有料紅白戦の客寄せパンダに使って、新しい逸材を壊してしまった」「無理させず基礎トレーニングを積ませておけば良かった」と当時の阪神首脳陣を批判している[8]。球速は速かったらしく、掛布がある番組で「ケガさえなければ間違いなく活躍していた選手だった」と発言している。
引退後、当時妻の実家があった滋賀県で「源五郎丸スポーツ&薬局」を開店したが[3]、その後は自身の実家がある姫路市で父の造園業を継ぎ[3]、少年野球の指導を続けながら「スポーツプランニング源」を立ち上げた[1]。
「GENGOROMARU」
[編集]入団後は「源五郎丸」の名字にも注目が集まり、GENGOROMARUと11文字にも及ぶローマ字がユニフォームに正しく収まるかで議論が起こり、収まらない場合は最悪背番号を囲んで丸く書くか、上下2段にすることも考えられたらしい(実際は問題なく収まった)[9]。
入団当初はNPBの選手の中でもっとも長いユニフォームの英名であったが、1999年には中野渡進のNAKANOWATARIの12文字が最長となる(2002年に堤内健のTSUTSUMIUCHIも12文字で並ぶ)。現在は2007年にロッテに入団した下敷領悠太のSHIMOSHIKIRYOが13文字で最長となっている。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]- 一軍公式戦出場なし
背番号
[編集]- 17 (1982年 - 1986年)[7]
脚注
[編集]- ^ a b c “「時代」を彩った男と女・あの人は今 元阪神タイガース・源五郎丸洋さん”. リアルライブ. (2010年2月13日) 2021年10月25日閲覧。
- ^ “尾仲と虎番の不思議な縁 懐かしい〜、なんとあの元阪神・源五郎丸親類と共通の知人”. 産経WEST: p. 1. (2018年1月19日) 2021年10月25日閲覧。
- ^ a b c 週刊ベースボール2002年12月2日号「あのドラフト1位は今」ベースボールマガジン社
- ^ “猛虎人国記(10)~大分県~「怪童再来」源五郎丸の悲劇”. スポーツニッポン. (2012年3月27日) 2021年10月25日閲覧。
- ^ “元阪神ドラ1源五郎丸洋 客寄せ試合で野球人生棒に振るケガ”. 週刊ポスト. (2012年11月7日) 2021年10月25日閲覧。
- ^ “【2月15日】1982年(昭57) 「阪神の歴史を作る投手や」村山も絶賛したドラ1源五郎丸”. スポーツニッポン. (2011年2月2日). オリジナルの2019年5月25日時点におけるアーカイブ。 2021年10月25日閲覧。
- ^ a b “阪神の「17」は恐怖の背番号…背負う岩貞、70年ぶりのジンクス打破に挑む”. 産経WEST: p. 1. (2016年7月4日) 2021年10月25日閲覧。
- ^ 江本孟紀・著『プロ野球を10倍楽しく見る方法』 ワニブックス
- ^ 1983年には、12文字のスティーブ・ストローター(S.STROUGHTER)が同僚だった。当時の阪神は、外国人選手のファーストネームの頭文字を入れるのが慣例となっていた。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 元阪神タイガース源五郎丸洋による少年・少女野球教室 「夢応援隊」 - ウェイバックマシン(2009年10月17日アーカイブ分)