源通具
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時代 | 平安時代末期-鎌倉時代前期 |
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生誕 | 承安元年(1171年) |
死没 | 嘉禄3年9月2日(1227年10月13日) |
別名 | 堀川大納言 |
官位 | 正二位、大納言 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 村上源氏久我家分流堀川家 |
父母 | 父:源通親、母:平教盛の娘[注 1] |
兄弟 |
源通宗、通具、久我通光、土御門定通、中院通方、道元?、土御門通行、定親、 親縁、雲快、親子 養兄弟:源在子 |
妻 |
正室:藤原俊成養女[注 2] 藤原信子(能円の娘) |
子 | 具定、具実、具忠、具教[注 3]、行空、円源 |
源 通具(みなもと の みちとも)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。堀川大納言と号す。右大将・源通親の次男。官位は正二位・大納言。堀川家の祖。
経歴
[編集]主として後鳥羽院歌壇で活躍した。建仁元年(1201年)には和歌所寄人となり、同別当となる。
『新古今和歌集』の撰者の一人にも選ばれるが、父・通親の代理という意味合いが強い。
また「千五百番歌合」などに出詠し、『新古今和歌集』に入集しているが、後鳥羽上皇や親友・藤原定家からの歌人としての評価はあまり高くなかった。
親族・交友関係
[編集]後に妻の俊成卿女とは離別したが、藤原俊成の息子である定家とは親しく交際を続けた。定家は通具の父の通親とは対立していたが、通具死去の報を受けた際、深く悲しんだという。
道元も通具の子であるとする説があるが、道元は異母弟であり、通具はその養父であったという説もある[1]。
官歴
[編集]出典[2]
- 文治元年(1185年)、因幡守に任ぜられる。
- 建久2年(1191年)、従五位上に進む。
- 建久4年(1193年)、右少将に任ぜられる。正五位下に進む。
- 正治元年(1199年)、従四位上に進む。
- 正治2年(1200年)、中将及び蔵人頭に任ぜられる。正四位下に進む。
- 建仁元年(1201年)、参議に任ぜられる。
- 建仁2年(1202年)、従三位に進む。備中権守に任ぜられる。
- 建仁3年(1203年)、正三位に進む。衛門府の督及び使別当に任ぜられる。
- 元久元年(1204年)、備中権守を辞する。
- 元久2年(1205年)、権中納言に任ぜられる。
- 建永元年(1206年)、右衛門督及び使別当を辞する。従二位に進む。
- 承元2年(1208年)、正二位に進む。踏歌続内弁となる。
- 承元4年(1210年)、中宮権大夫に任ぜられ、同年、これを辞する。
- 建暦元年(1211年)、中納言に任ぜられる。
- 建暦2年(1212年)、権大納言に任ぜられる。
- 承久3年(1221年)、奨学院別当となる。
- 貞応元年(1222年)、大納言に任ぜられる。
系譜
[編集]- 父:源通親(1149-1202)
- 母:平教盛の娘または平通盛の娘
- 正室:藤原俊成養女 - 尾張守藤原盛頼の娘
- 長男:堀川具定(1200-1236)
- 妻:藤原信子 - 後鳥羽院女房按察局。能円の娘
- 次男:堀川具実(1203-1277)
- 生母不明の子女
- 男子:堀川具忠
- 男子:堀川具教
- 男子:行空
- 男子:円源
関連作品
[編集]- テレビドラマ
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 中尾良信 2003, p. 51.
- ^ 野島寿三郎 1994, p. 905–906.
参考文献
[編集]- 野島寿三郎 編『公卿人名大辞典』日外アソシエーツ、1994年。
- 中尾良信 編『孤高の禅師 道元』吉川弘文館、2003年。ISBN 4-642-07853-3。