溝口泰男
溝口 泰男 (みぞぐち・やすお) | |
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生誕 |
1939年10月26日 日本 栃木県 |
死没 | 1989年6月17日(49歳没) |
教育 | 学習院大学 |
職業 |
ジャーナリスト(NET→テレビ朝日専属キャスター) タレント、司会者 |
活動期間 | 1969年 - 1989年 |
溝口 泰男(みぞぐち やすお、1939年10月26日 - 1989年6月17日)は、栃木県出身のタレント、司会者、ジャーナリスト、日本教育テレビ→テレビ朝日専属契約キャスター。
来歴・人物
[編集]栃木県で出生したが、生後すぐに東京都へ移った。学習院大学卒業。経済誌の記者や月刊『今日』編集長を経て、選挙運動を通じて知り合った小田久栄門にスカウトされ、1969年『奈良和モーニングショー』(NET、後のテレビ朝日)のサブ司会に就任してテレビデビューを果たす。同時にNETとの専属契約を結んだ。竹中陽一時代までサブ司会を務め、交代司会を経て、1977年5月よりメイン司会(『溝口泰男モーニングショー』)を6年間務めた。
『モーニングショー』の司会を当時朝日新聞社記者の江森陽弘に引き継いだ後も、『速報!TVスタジアム』等でレギュラーを持つが、1986年に専属契約を解消して個人事務所を設立した。キー局では番組作りに自分の意向が反映されにくいことから、敢えて地方局の仕事を選び、自ら企画構成を務める『土曜プラザ』『溝口泰男のサタディ・アイ』(いずれも瀬戸内海放送)の司会を担当した。
しかし、独立してから間もなく直腸がんが発覚する。『モーニングショー』担当時も、胃潰瘍などしばしば胃腸の不調を訴えていたという。入退院を繰り返しながら仕事を続けていたが、3度目の手術の後、容体が悪化。本人の強い希望で自宅療養も検討された矢先の1989年6月17日に入院先の杏林大学医学部附属病院で死去した。49歳没。一周忌には作家の澤地久枝、『モーニングショー』で共演した八波一起らが発起人となって偲ぶ会が執り行われた。
家族
[編集]学生時代に資産家の娘と結婚した。二男を授かるも、その後離婚した。
1970年に令子[1]と再婚した。妻との間に朝(とも)と公(こう)の二男を授かった。次男の溝口公はシンエイ動画に勤務[2]し、アニメーターとして『ドラえもん』等の制作に携わっていた。
溝口の死後に公開された遺言状には「遺産は令子とその息子に相続する。」と認めたにもかかわらず、遺産の分配を巡って、先妻の家族との民事訴訟に発展した。
出演
[編集]報道・情報ワイドショー番組
期間 | 番組名 | 役職 | |
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1969年4月 | 1977年3月11日 | モーニングショー(NET→テレビ朝日) | サブ司会 |
1977年3月14日 | 1977年4月 | 交替制での司会 | |
1977年5月 | 1983年3月 | メイン司会 | |
1983年4月 | 1984年3月 | 速報!TVスタジアム(テレビ朝日) | 総合司会 |
1983年7月 | 1985年9月 | TVスクープ(テレビ朝日) | キャスター |
その他
- オリンパソン'80(1980年、テレビ朝日)
- ゆく年くる年(1980年、制作:日本テレビ・民放連共同) - 徳光和夫、渡辺謙太郎、露木茂、金子勝彦とメインパーソナリティーを務めた。
- 土曜プラザ(1986年、瀬戸内海放送)
- 溝口泰男のサタディ・アイ(1987年、瀬戸内海放送)
著書
[編集]- 『溝口泰男のプライベート対談 : テレビの外でTea for two』婦人生活社、1981年4月25日。NDLJP:12260774。
- 溝口泰男の体当たり子育て論 子どもは曲がったキュウリでいい(1982年、山手書房)
- あなたの生き方ちょっと変えてみませんか(1983年、海竜社)
関連書籍
[編集]- 山内喜美子『告知せず―ガンで夫との愛の深さを知った妻たちの四季』(文藝春秋)1991年9月
- 溝口令子への取材を基にした闘病記が収録されている。プロフィールも同書籍を出典とした。
脚注
[編集]関連項目
[編集]- 奈良和
- 八波一起 - 『溝口泰男モーニングショー』パートナー
- 柴田美保子 - 同上
- 渡辺直子 - 同上
- 銅谷志朗 - 同上
- 石川恭三 - 『モーニングショー』の「朝の診療室」に出演して溝口と関係が出来、石川を頼って杏林大学医学部附属病院に入院した。
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