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溝口直信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
溝口直信
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦6年3月12日1756年4月11日
死没 天明6年7月12日1786年8月5日
改名 恵三郎(幼名)、直堅(初名)、直信
戒名 光通全達観浄院
観浄院殿前伯州大守光通全達大居士
墓所 東京都文京区吉祥寺
官位 従五位下伯耆守
越後新発田藩世嗣
氏族 溝口氏
父母 溝口直温松平信祝娘・留姫
溝口直養
兄弟 直養直之直経、幸之助、茂十郎、
直信山口弘務、堀徳三郎、政姫、
民姫、吉姫、勝姫
松平武元娘・侶姫
直侯、富六郎、春姫、房姫、筆姫、
富姫、秀姫、阿姫、完姫、幾姫
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溝口 直信(みぞぐち なおのぶ)は、江戸時代中期の越後国新発田藩の世嗣。官位従五位下伯耆守

経歴

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越後国新発田藩7代藩主・溝口直温の六男として誕生。幼名は恵三郎。は初め直堅、のち直信と改める。

宝暦11年(1761年)5月27日、8代藩主である兄・直養の養子となり、世子とされる。明和6年(1769年)3月1日、徳川家治に初めて拝謁する。安永元年12月18日(1773年)、従五位下・伯耆守に叙任される。天明5年(1785年)、病身の直信には家督相続は難しいとして、その廃嫡がはかられる事件(退身一件)が起きた。この事件の背景には生母の清涼院の意向があったとも言われ、その後しばらく続く藩内の権力抗争の幕開けでもあった。

天明6年(1786年)に直信は世子に復帰するが、同年7月12日に江戸において31歳で没した。法号は光通全達観浄院(観浄院殿前伯州大守光通全達大居士とも)。江戸駒込の吉祥寺に葬られる。家督以前に没したため、直養の家督は直信の長男・直侯が継いだ。

系譜

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子女は2男8女[1]

脚注

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  1. ^ 新発田藩「御記録」(『新発田市史資料第一巻 新発田藩史料(1)』所収)に拠る。『寛政重修諸家譜』では1男5女。順序にも異同がある。