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溝江長逸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
溝江 長逸
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正2年2月19日1574年3月12日
戒名 常心院殿高雲宗岳大居士
墓所 福井県あわら市大溝
官位 大炊助
主君 朝倉義景織田信長
氏族 溝江氏
父母 父:溝江景逸
兄弟 長逸辨栄妙隆寺住職)
長氏
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溝江 長逸(みぞえ ながやす[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将朝倉氏、後に織田氏の家臣。越前国金津城主。

略歴

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溝江氏は溝江郷南金津に根拠をもつ土着の豪族だったが、朝倉氏が一乗谷を中心に越前の支配を強めた頃、同氏に臣従した[2]。『朝倉義景御成記』では、同名衆の中に溝江氏の名が確認出来る[3]

長逸と父の景逸加賀一向一揆への備えとして金津に居を構え、しばしば一揆と戦い軍功を挙げた[2]。また、溝江氏は堀江氏に対する目付的な存在であったと考えられており、永禄10年(1567年)3月、堀江景忠利茂父子謀反の風聞が伝わると、溝江館を本陣として堀江氏の本庄館への攻撃が行われ、この結果景忠・利茂父子は加賀へ亡命した[1]

一方で長逸は廻国と称して織田信長と誼を通じており、天正元年(1573年)8月、朝倉義景が北近江に出兵した際には下口警固を名目に越前から動こうとせず、信長によって朝倉氏が滅ぼされると、長逸は本領安堵のうえ朝倉景行の旧領を与えられた[1]

しかし翌年の天正2年(1574年)1月に越前一向一揆が勃発し、2月10日杉浦玄任を大将とした一向一揆勢に金津城を攻撃される。長逸らは数日間持ち堪えるが、2月19日に落城し[4][注 1]、景逸・長逸父子は妙隆寺住職の辨栄ら一族郎党30余人と、客将の富樫泰俊とともに自害した[2][3]。辞世の句は「思ひきや果つるまじ身も梓弓矢もさしはけず朽ち果てんとは[5]」。

なお、長逸の子の長氏は難を逃れ、その後織田家に、次いで豊臣家に仕えて家を再興した[3]

注釈

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  1. ^ 16日に一揆方から和議の話が持ち上がり、19日に杉浦が人質とともに和睦の使者を遣わしたが、金津城を囲んでいる一揆勢の鬨の声に驚いた家臣が使者に斬り付け、再び戦いになったという。

脚注

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  1. ^ a b c 山本大小和田哲男『戦国大名家臣団事典 西国編』新人物往来社、1981年8月25日、377-378頁。ISBN 9784404010766 
  2. ^ a b c 金津城溝江館跡”. あわら市郷土歴史資料館 (2015年12月24日). 2021年11月10日閲覧。
  3. ^ a b c 中世あわらの豪族・溝江一族” (PDF). あわら市郷土歴史資料館. 2022年2月4日閲覧。
  4. ^ 谷口克広『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』中公新書、2007年7月25日、49-50頁。ISBN 9784121019073 
  5. ^ 伊東尚一『金津町史』金津町教育委員会事務局、1958年2月23日、61頁。