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滄浪泉園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
滄浪泉園
滄浪泉園入口(2020年2月)
滄浪泉園の位置(東京都内)
滄浪泉園
分類 緑地保全地区
所在地
座標 北緯35度41分56秒 東経139度29分55秒 / 北緯35.69889度 東経139.49861度 / 35.69889; 139.49861座標: 北緯35度41分56秒 東経139度29分55秒 / 北緯35.69889度 東経139.49861度 / 35.69889; 139.49861
面積 11,700m2[1]
運営者 小金井市
告示 1979年10月
事務所 滄浪泉園管理事務所
事務所所在地 東京都小金井市貫井南町三丁目2番28号
公式サイト 滄浪泉園
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滄浪泉園(そうろうせんえん)は、東京都小金井市にある有料の庭園[2]、緑地保全地区[3]波多野承五郎の別荘の一部が庭園として残されたもので、名称は犬養毅の命名による[2]

由来

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当地では後期旧石器時代からの住居遺跡(はけうえ遺跡)が発掘されており、湧水を求めて古くから人が定住していたことが知られる。

実業家衆議院議員も務めた波多野承五郎は、国分寺崖線の上にあるこの一帯に、1914年に別荘を構え[4]、敷地面積3.3haほどの庭園を営んだ[2]1919年には、犬養毅がここを訪れ、「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」という意味を込めて「滄浪泉園」と命名した[2][5]。後には犬養の直筆を写した、石の門標が設けられた[2][6]

昭和に入った後、1920年代後半に、三井鉱山の経営者である川島三郎が所有するようになり、第二次世界大戦後は、川島家が継承していた[7]

1950年に発表された大岡昇平の小説『武蔵野夫人』に登場する「はけ」の家は、滄浪泉園をモデルとしたものとされることがあるが[8]、これには否定的な見解もある[9]

その後、宅地開発の波にさらされ、滄浪泉園の敷地は、会社の寮や一般の宅地として切り売りされ、1975年の時点で既に往時の3分の1にまで縮小していた[7]。さらに、1975年11月には、残る一帯を開発して高層マンションを建設する計画が明らかになり[10][11]、小金井市に敷地の買い上げを求める声が上がった[7]1976年に結成された「滄浪泉園の保全を押し進める会」[12]など、市民や研究者らによる保存運動が功を奏し、現在の滄浪泉園の範囲は保全されることとなった[13]

東京都は8億円を投じ[10][11]、残されていた敷地を段階的に買収して、1977年都市緑地保全法に基づく「緑地保全地区」に指定した上で、「自然緑地」として小金井市に滄浪泉園の管理を委ねた[2]1978年1月から管理を委ねられた小金井市は、1億5千万円をかけて園内を整備し10月1日に開園したが、2ヶ月で公開をやめ、さらに整備をした後[14]、翌1979年10月に改めて緑地として開園とした[10]

現在は、都市緑地法に基づく「特別緑地保全地区」となっており、有料で公開されている[2]

地形と植生

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滄浪泉園の入口は、敷地の中の高い部分に位置しており、そこから坂を下って国分寺崖線の下に出ると湧水を集めた池がある[6]。滄浪泉園の湧水は、東京都の代表的な湧水のひとつとされ[15]東京の名湧水57選にも選ばれている[16]1985年の時点では、池にはコイフナタナゴドジョウなどが生息しているとされた[10]

敷地内には、ブナケヤキ[8]、高さ20mほどもある[17]アカマツスギなどが茂っており[1]モミジなどの紅葉の名所としても知られている[3]。千本ほどの樹木があるとされる雑木林の樹種は、あわせて135種類とされ、十数種類の野鳥が観察されるという[10]

敷地内には水琴窟がある[6][17][18]

ギャラリー

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脚注

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  1. ^ a b “[リラックス]滄浪泉園 歴史感じる憩いの庭”. 読売新聞・東京朝刊・東京都民: p. 33. (2009年2月25日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  2. ^ a b c d e f g 滄浪泉園について:小金井市公式WEBへようこそ”. 小金井市 (2020年12月21日). 2022年1月14日閲覧。
  3. ^ a b “きょうから、紅葉情報をホームページで提供--都建設局と都公園協会”. 毎日新聞・朝刊・東京. (2000年10月27日)  - 毎索にて閲覧
  4. ^ 京都造形芸術大学通信教育部 芸術教養学科WEB卒業研究展”. 京都造形芸術大学. 2018年7月15日閲覧。
  5. ^ 犬養の言葉の表記は、十代田ほか(1992, p.376)による。
  6. ^ a b c 第9回 滄浪泉園から弁車の坂、貫井トンネルの坂へ”. こがねいコンパス (2015年11月8日). 2018年7月15日閲覧。
  7. ^ a b c “夢みる「武蔵野夫人」の自然復活 滄浪泉園、十月開園めざし整備着々”. 朝日新聞・朝刊・東京: p. 20. (1979年4月22日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  8. ^ a b 伊東謙治 (2006年8月25日). “[文学の道](6) ハケ 残る武蔵野の昔(連載)”. 読売新聞・東京朝刊・多摩: p. 31  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  9. ^ 大野勲、内田順文「大岡昇平『武蔵野夫人』の舞台に関する地理学的考察―「はけ」の家の位置をめぐって―」『国士舘大学地理学報告』第22号、2014年、1-11頁。  NAID 120005958388
  10. ^ a b c d e “滄浪泉園 ものしり帳”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 20. (1985年8月9日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  11. ^ a b “[夢を追う]川にそそぐ愛情--編集者、若林高子さん (60)”. 毎日新聞・東京朝刊. (1996年4月22日)  - 毎索にて閲覧
  12. ^ 松本浩、下村彰男熊谷洋一、小野良平「野川流域に関わる市民団体の活動の変遷に関する研究」『ランドスケープ研究:日本造園学会誌』第59巻第5号、1996年3月29日、225-228頁。  NAID 110004305999
  13. ^ 若林高子 (2012年10月). “湧水に魅せられて” (PDF). 水とともに (独立行政法人 水資源機構) (108): p. 3. https://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/2012/pdf/1210-03.pdf 2018年7月15日閲覧。 
  14. ^ “夢みる「武蔵野夫人」の自然復活 滄浪泉園、十月開園めざし整備着々”. 朝日新聞・朝刊・東京: p. 20. (1979年4月22日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  15. ^ 東京都の代表的な湧水”. 環境省. 2018年7月15日閲覧。
  16. ^ 番号30:東京の名湧水57選”. 東京都環境局. 2018年7月15日閲覧。
  17. ^ a b 小林佑基 (2007年6月5日). “[東京の散歩道]滄浪泉園 神秘的な池、深山の雰囲気”. 読売新聞・東京夕刊: p. 11  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  18. ^ フローレンス (2015年8月28日). “残暑を逃れて緑深い庭へ 滄浪泉園@武蔵小金井”. サンケイリビング新聞社. 2018年7月15日閲覧。

参考文献

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  • 十代田朗、安島博幸、武井裕之「戦前の武蔵野における別荘の立地とその成立背景に関する研究」『造園雑誌』第55巻第5号、社団法人日本造園学会、1992年3月31日、373-378頁。  NAID 110004661578

関連項目

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外部リンク

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